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Posted by ミリタリーブログ  at 

2017年04月23日

狩猟人生、その5:待望の本州鹿1頭目:1990年。

自前会社時代の狩猟、本州鹿1頭目の捕獲に成功。1990年。
1989年(有)サンシャ電装を設立の翌年、1990年にやっと第1号の鹿が獲れました。
それは9年目の70余日目でした。
この記念すべき1頭目は携帯電話にカメラが付いていない所か形態電話自体がまだ普及して
いない時代であり、獲れるとは全く思っていなかったのでカメラの準備もなく写真はありません。

もちろんそれまでの70余日間、何もしなかった訳ではなく、当時考られる事は全て試しました。
それがこの日は新しい試し事をもう思い付かなくなり、諦めの心境になりました。
そしてこれが結果オーライとなりました。今までは自ら振り撒いていた「気配」と言うか「殺気」
のお陰で鹿に感付かれ、迂回されていたのですが、諦めの心境で「殺気」は無くなり「気配」
もかなり低下しました。

その結果、何時もの様に感付かれる事なく筆者の待ち場に鹿は接近し、そして自らの気配も
低下していましたので筆者も鹿の接近に気付き、射撃は元々自信がありましたので捕獲成功
となったのです。

それを元に考え直すと今までは何故獲れなかったのかよく分かり、1頭捕獲したら辞める件は
無期延期とし、更に多少 追加事項を試したくなりました。
その結果、翌年10年目の捕獲は無く、最初の10年間ではこの1頭だけの捕獲に終わりました。

しかし本州鹿狩りの内容が十分理解出来た事は大きな進歩であり、次の10年間では100頭
を捕獲、そして更に次の10年間には何と1000頭を捕獲したのですから痛快です。
この急速な進歩を達成出来た理由は狩猟にも合理化と同じ手法が使えたからでした。

1991年、もう一つの狩猟であるカモ猟で過去最大の大猟がありました。
20年に1度の奇跡的な大猟でした。カモの商品価値は低下した物の当時の鹿猟の解禁は
12/1から2ヶ月間、カモ猟は11/15からの3ヶ月間、相変わらずカモ猟の解禁は楽しみの
一つでした。捕獲ノウハウの全てはここに遺憾なく発揮され、カモ撃ちの技術的にはこの頃は
1番乗っていました。

この年から岩手猟を始めましたが、岩手に鹿の楽園は無く、結果として遠廻りをしてエゾ鹿の
巻狩りに到達、しかしそれも究極の猟ではありませんでした。
究極のエゾ鹿猟は後刻述べるガイド付の流し猟でした。


1991年にはライフル銃のレミントン742を取得、1984年から運用開始したレミントン1100
ディアーガン20番とのペアガンとして使える同型式のライフル銃で効果を発揮する筈でしたが、
期待外れでした。本城では93年ルガー77に変わるまで3頭捕獲に留まりました。


20番ショットガンタイプでは1990年鹿の第1号を捕獲し97年11-87に変えるまでに全て
バックショットで10頭を捕獲しましたが、元々本来の用途ではなく、無チョークからのバラ撒き
は被弾粒数不足でよく走られました。

どちらの銃も同じですが、照星、照門、目標を同一線上に捉え難いと言う、早い話がオープン
サイト自体の欠陥であり、この欠陥は後刻ルガー77のスコープ専用銃を運用してよく分かり、
そして11項のショットガン対策でこれは証明されました。







  


Posted by little-ken  at 18:03狩猟人生を振り返って、

2017年04月23日

狩猟人生、その4:本州鹿巻狩り連戦連敗の9年間:1982年~。

連戦連敗の「本州鹿猟の始まり」。1982年~
1982年頃から時代は変わり、焼き鳥は中国で100%加工済みの物を使う様になり、カモが
売れなくなりました。それで予ねてから憧れていた大物猟の世界に移りましたが、それは予想
とは大きく違う世界でした。
仕事的にはこの2年前から自前会社設立準備の為、中小企業に修行に行っておりました。

当時愛知県内にはまだ鹿が少なく、猟場は片道3時間掛けた隣県の三重県の中央付近でした。
カモ数千羽撃墜の実績から実戦射撃は誰にも負けない程の抜群の自信があり、鹿に出会える
事さえ出来れば捕獲は極めて容易と思っていました。ところが現実はそう甘い物ではなく、
結果的には非常に良い勉強になりました。

結果的に7年の50余日間は鹿の姿さえ見せてもらえず連日沈黙の敗戦が続き、7年目の
1989年やっと初失中を記録しました。

後刻どうして鹿が来なかったのかの原因は分かりましたが、それは「さあ、何処からでも来なさい」、
「トンコロにして差し上げましょう」と「殺気」を振り撒いていたのです。
鹿に限らず野生動物の五感は人間の1000倍以上も優れています。
鹿の側からすれば筆者の視界外で射手の存在を知り、迂回していたので姿さえ見せてもらえ
なかったのです。

間違って入部した名門バレー部でさえ逃げ出さなかった筆者です。それを今回は自ら希望して
始めたのですから獲れないからの如きで逃げ出す訳には行きません。これは筆者の信条です。
同時期に始めた他の新人3名は3年前後で 全員が獲れないからの理由で当の昔に辞めて
行きましたから、筆者は余計に意地でも辞められません。

そうは言う物の全体的にも余りに捕獲率は低く、0.05頭/日人の程度でした。
つまり20回出撃してやっと1頭となりますが、もちろん新人はこの枠外です。
余りに捕獲率が低いので辞める決意をしましたが、それは1頭を捕獲してからとしました。

1983年から銃砲専門月刊誌であるガン誌ライターとなりましたが、まもなく雑誌が狩猟記事
を扱わなくなり短命なライターに終わりました。
そうそう1頭目の失中原因は14-6項で詳しく述べますが、オープンサイト自体の欠陥でした。
近距離には適していると言われていたオープンサイトですが、本当は適していなかったのでした。

  レミントン1100の20番ディア―ガン。スラグ専用銃ですが、初失中後にとにかく
  被弾させる事を最大優先しバックショットを運用に変更した。








  


Posted by little-ken  at 18:22狩猟人生を振り返って、

2017年04月23日

狩猟人生、その3:帰国後のカモ撃ちバイト:1975年~。

海辺の製材工場時代の狩猟。1975年~
1975年、前記の様にヤマハのボルネオ島プロジェクトの後工程に位置する製材工場合理化
の仕事を戴きました。
製材工場があったのは愛知県豊橋市の海岸部、そこは全国NO.2のカモの渡来地
(銃猟禁止区域)の隣ですから、目の前にはカモがたくさんいます。
ハンターならばこれを撃たないと言う手はありません。

筆者はここの仕事になった1975年から本格的カモ猟開始、2連発では寂しいので当時は
まだ5連発であったガス圧作動式セミオートSKB1900を取得しました。
筆者は本社から派遣されており、工場の勤務体制に  従う必要はなく、毎朝カモ猟を
1~2時間してから遅め 出勤をしていました。
当初は未熟ですからカモが余り獲れず回収は寒中水泳法でした。

やがて後述の手法の組合せでカモがたくさん獲れる様になるとこの寒中水泳法は余りに
大変で、色々試行錯誤の末、結果的に水の流れと風の向きを見て回収を先に考えた狩猟を
行う様になりました。つまり撃っても獲物が流れ着かないのであれば撃っても意味がありません。
捕獲はその条件が整うまで待つと言うやり方で、結果的にカモの習性に精通する事になり
出会いが倍加しました。

数年後には秒速3発の速射法が完成し、これで捕獲率は一気に3倍近くに向上、更に安価な
射撃用の小粒7.5号弾の有効度が高い事を発見、これにより弾代は半額になり、それで
いながら更に命中率は倍加、つまり合計では6倍の捕獲量にもなったのです。

実戦の場数を多数踏むと狩猟技術は更に向上、遂には一群れから良い獲物だけを選んで
一瞬の1連射で当時8羽の定数を希望の場所に墜せる技術を身に付けました。
従ってカモの回収に時間が掛からず長靴すら不要でした。
「そんな夢の様な狩猟が可能なのか」、可能でしたから特権乱用でカモ撃ちは良いアルバイト
になり、朝は遅めの出勤ですが、夕方には早目の退社で夕方ラッシュの前に朝獲ったカモを
売りに出掛けていました。

当時は高度成長時代で庶民向けの炉端屋や焼鳥屋がカモを欲しがり、海ガモでも1羽
800円弱で売れました。これは月給が5万円の時代にシーズン(3ヶ月)に数百羽を売りまして
合計30万程のお小使いになりました。
この頃はカモ猟にシーズン3ヶ月に3000発を消費していました。
これだけ撃てば誰でも少しは上手くなれます。

カモ撃ちは儲かるバイトで、この費用は主に旅行の費用となりました。
SKB1900はその後50年間弱に同型式5丁を使い継ぎ、推定カモ5千羽以上&害鳥のドバト
含むハト類4千羽以上を 捕獲する事になりますが、それはこの時に得た射撃技術や狩猟
ノウハウのお陰で、それは後刻のお話にします。







  


Posted by little-ken  at 18:25狩猟人生を振り返って、

2017年04月26日

狩猟人生、その2:ボルネオ島ジャングル駐在を拝命:1973年。

ボルネオ島の狩猟。1973年。
1973年ヤマハに転職、ボルネオ島ジャングル駐在1年間を拝命、木材搬出の為のベース
キャンプを作る仕事でした。
実はボルネオはマレーシアの呼び方であり、インドネシアではカリマンタンと言います。
共にイスラム教ですがインドネシアの方がルーズで、ここはアルコールもビールまではOKです。
ここには野性動物がたくさんいるのですから、狩猟を行わない手はありません。

マメジカやオオトカゲやヤマネコと現地ポリスから銃を借り、公認の夜撃ちをしていました。
ただポリスの銃はナチスマークの入ったモーゼル98K、強力過ぎて小物はバラバラになって
しまい、4.5mm口径のスプリング式空気銃を購入しました。
本当は5.5mmのポンプ式が欲しかったのですが入手不可でした。

主な獲物はウサギの2倍程度のマメジカ、毎週の様に夜間狩猟に行きましたが数回に1回しか
獲れませんでした。
マメジカはウサギの様な味がします。ウサギを知らない人向けに言えば1番近いのは鶏肉です。

そして残念だったのはキャンプ近くに居付いた体重200~400kgの大型サンバー鹿の夜撃ち
に行った時の事です。10mの距離で5秒以上の時間があったのですが、オープンサイトに
慣れていなかった事もありますが、迫力負けで  撃つ事が出来ませんでした。
今なら絶対に捕獲していますが、当時はまだまだ未熟でした。

  左:キャンプで獲れた大水トカゲ。右:現地助手と捕獲したヤマネコの皮と孔雀のしっぽ。

また近くの沼には雷魚がたくさんおり、魚が食べたくなるとこれを釣りに行きました。熱帯のジャングルと言うと蔓や草で1歩進むのも蛮刀で切り開かなくてはならないと言う感じを
受けますが、それは川の近くの焼き畑農業を行った跡地周辺だけの事です。
元々ジャングルと熱帯雨林は全くの別物なのです。

今では本物の熱帯雨林は本当に少なくなりましたが、そこは高さ50m以上の大木の森が
生い茂り、太陽の光は地面に全く届かないのです。
従ってつる草の類は殆どなく、釣竿を担いでスイスイ歩ける、これが本物の熱帯雨林です。
当時持っていたフィルムカメラの感度はASA100、これですと昼間でもフラッシュが必要でした。
そう言う事でジャングル内の写真は殆どありませんが、それは写らないからなのです。
雷魚はウナギよりもヌメリが強く、鶏肉よりも歯応えがありますが鶏肉の様な美味しい魚でした。

   現地製の押し罠、珍しく明るいジャングルでした。ジャングル内で写っていた
   写真はこれだけです。  これで色々な小動物が獲れました。
   ヤシの葉の作業小屋、全身キャンプとして各所に作られていました。








  


Posted by little-ken  at 17:35狩猟人生を振り返って、

2017年05月09日

狩猟人生、その1:銃18歳、狩猟20歳、狩猟人生の始まり:1968年~。

銃と狩猟の始まり。1968年~
1968年、トヨタフォークリフト入社設計に配属。普通運転免許取得し愛車はベレットディーゼル
を購入し、休日毎に日本各地にツーリングしました。当時軽油はガソリンの半分以下、
15km/リットル走り、1kmを1円強の程度で走れました。

また川崎W1と言う650㏄のバイクも持っていました。これは1リットルで45kmも走って
くれますのでこれも助かりました。
燃費の良いで言えば筆者は使いませんでしたが、その頃デビューしたトヨタスポーツ800も
1リットルで35km走りました。

18歳になって空気銃のライセンスも取得しました。最初の銃は5.5mmのポンプ式空気銃、
メーカーは絶版の兵林館 のモデルASでした。
狩猟は20歳まで待たなくてはならず、取り敢えずは隣市の射撃場に連日通いました。

1970年には20歳になり念願だった狩猟を開始、2年間の射撃場通いで腕はかなり上がり、
立撃ちMax.168点、30m 離れた雀の頭だけを撃ち抜く事が出来る様になり、且つパワフル
で75m先のキジバトを貫通しました。

しかし間もなく飛鳥射撃に心を奪われ空気銃を売却、上下2連散弾銃SKB700を所持しました。
ところが当時はハンターが50万人以上と非常に多く、何処に行っても先客が必ずいました。
結果として狩猟は甘い物ではなく、何処に行っても獲物には会えず、会えるのは先輩
ハンターだけ、稀に獲物に出会えても射撃まで持ち込めず、稀に射撃しても撃墜する事は
出来ず、落ちこぼれる寸前でした。

落ちこぼれ寸前は初年度最終日のキジバト命中で救われ、その後は徐々に獲物の付き場や
狩猟法も徐々に分って 来ました。翌年、家の近くの休猟区が開き、小雨の降る時にキジの
踏み出し猟に行きました。

何と信じ難いのですが、25回もの射撃チャンスがありましたが、事如く失中、持っていた弾50発
を使い切る直前の最後にやっと1羽に命中しました。当時はそれ位までに未熟でお粗末でした。
当時の月給は3万円、弾は50円/発、日当の丸2日分の弾代はかなり効きました。

      兵林館AS、30m先の雀の頭を狙撃75mのキジバトを貫通。

             SKB700上下2連銃12番。

当時狩猟と言えば猟犬を使ったキジ・ヤマドリ・コジュケイ猟が80%で超主流、猟犬が
いなくてはハンターではないと先輩ハンターも 猟犬を押し付けて来ました。
今ではヤマドリやコジュケイはほぼ絶滅寸前です。
既成路線に対しては反骨精神の筆者の方向はドッグレスのカモ猟に決まりました。
最初のカモは朝日に輝く見事な青首、失中でした。










  


Posted by little-ken  at 08:20狩猟人生を振り返って、

2017年05月10日

狩猟人生、そのゼロ:人生のベースとなった高校時代:1965年~。

高校時代。1965年~
筆者の人生を語るにはこの高校時代を抜く事は出来ません。
1965年、周りからは大学進学の為の名門高校受験を勧められましたが、勉強をしなくても
済みそうな岡崎工業高校に逃げました。
電気科を選んだのも機械科より倍率が低かったと言うそれだけの理由でした。

当時の岡崎工業は成績上位10%以内が必要な名門高校でしたが、時代の変化は確実に
近くまで来ており、3年後からは大学進学が当たり前となり、工業高校は2流生徒が通う
学校となってしまいました。
筆者はトヨタフォークリフト設計部門に入社出来ましたが、最後の高卒エンジニアとなりました。

   名門と知らずバレーボール部を選択、人生が100%変わりました。
ここがバレーボールで超名門とは知らず、中学時代と同様に名前だけ所属のつもりで
バレーボール部に入部、入部してすぐにそんな様子でない事はすぐに分かりましたが、
間違って入部しましたと言う言葉が出せませんでした。
望んでいた訳ではありませんが、結果的にインターハイや国体にまで行く事になり、人生で
最大の転機となりました。

ここの特訓の1つずつが全て絶望的困難を伴い、当初はどんなに頑張っても20~30%の
達成率で全員がダウンします。
すると2年生が見本を見せます。当然ですが全員楽勝でクリアです。
そしてまた1年生の順番です。途中でダウンするとまた2年生の見本があり、永遠にそれが
繰り返され、全員揃ってやり遂げない限り終わる事はありません。

   各種の特訓はエマージェンシーパワーを引き出す為の儀式。
そうこうしている内にエマージェンシーパワーに火が付き何とか全員クリアしてその日は
終わり、やれやれです。
翌日にはまた違う種目が待っており、同じ様な事が繰り返されます。また何かミスをすると
これまた絶望的な罰ゲーム的トレーニングが待っていますが、2年生が必ず見本を見せて
くれるのでやれないとは言えません。

そんな日が半年続き、何時も如何にして辞めるか通りの良い理由を考えていました。
これで行こうと概ね作戦が決まりかけた頃、何時も誰かにその作戦を使われてしまい、また
再度理由を見付け様ともがく日々が続きました。
名門ですから新入生は我と思わん輩が50人ほど集まりましたが、どんどん辞めて行きました。
結局は決断力に乏しく卒業の方が早く来てしまった為、バレーボール部を卒業する事になり
ましたが、最後まで残ったのは6名でした。

   ゼッケン7が私。右写真:誰にも切らせた事の無い髪も全国大会の時だけ切りました。

   僅か半年でスーパーマンになれました。
連日の特訓に耐え半年後、気が付くと何時の間にかスーパー体力の持ち主になっていました。
そしてミスをして罰ゲームを頂く事もほぼ無くなりました。今にして思えば、あの絶望的な
トレーニングはエマージェンシーパワーを常用側に引き出す為の儀式だったと思います。

脚はあまり速くない方でしたので100m走は14秒強、200mは29秒、400mは1分ジャスト
と余り速度を落とさずに頑張れました。
それで行けば4分で1600m走れる計算になりますが、そうは行かず1500mは4分を僅か
数秒ですがハミ出し、切る事は出来ませんでした。

半年で概ね全ての特訓項目はクリア出来る様になりましたが、1つだけ難題が残っていました。
それはパスを往復1000回連続で続ける事でした。1000回行えば必ず数回はミスが出て
続けられなくなってしまい、 また最初からやり直しです。

結局これが出来る様にするには自らのミス率を一桁低下させる事も必要でしたが、相手にミス
が出た時、出てからでは運動神経の良くない筆者では特に対応不十分となり、結局は相手の
手とボールのずれから飛ぶ方向を予測が出来る様な特技が付いて、やっとこれをクリア出来る
様になりました。これは他のプレーの全てに応用が可能でした。

アタックを打たれてからでは0.3秒程度でボールは手元に来てしまいます。
筆者の反射神経は後述で述べますが、通常の2倍値の0.7秒強でした。
つまりアタックを打つかなり前に行動を起こさない限り、絶対にレシーブ出来ないのです。 
「その様な夢物語が可能なのか?」 結果として可能でしたから筆者の今があります。

名ハンターになれたのもそう言う特殊能力のお陰であり、数々の大きな仕事もそう言う先読み
能力のお陰でした。後追いの仕事では大変だけで、大きな成果は上げられず、仕事の出来
不出来は如何に読んでいるかで決まります。

   特殊能力の開花。
結局その特殊能力開花のお陰で1965~67のインターハイ3回と66年の国体に出場する
事になりましたが、それは後刻反射時間が0.7秒強である事が分かって、結果的にそう言う
特能力が身に付いた事が分かった次第です。
それまではバレーボールに適応出来る様になって苦手だった運動神経も改善されたと思って
いました。ゼッケンは2年生の時からずっと7番、得意はオープン攻撃とブロック、この二つは
誰にも負けませんでした。

こうして体力及び運動能力は著しく改善され、筆者は最底辺の運動ダメ人間の代表から上級
の運動選手までの両法を体験出来ました。そしてその改善範囲は体力だけではなく、
反射時間(運動神経)も訓練次第で改善出来ると思っていました。

ある時に実習で暇がありましたので120分の1秒が測れるストップウォッチを作り、約100人
の反射時間を測定してみました。
それによりますと平均値は0.35秒強付近にあり、日頃運動神経が優れていると言う人は0.25秒
程度で反応しました。
序でに言えば、各コートの大きさ等はこの0.3秒を基準に出来ており、運動神経が良い人で読み
が当たればイージーに処理出来ますが、そうでなければ対応が難しいレベルに設定されています。
すでにインターハイ選手となっていた筆者の反応時間は絶対に良い方の側に属する筈でしたが、
先述の様に超最悪の0.7秒強でした。装置が誤動作しているのかと思いましたが、正常でした。

つまり運動神経は遺伝であって、直し様が無かったのです。
それにしてはなぜバレーボールがまがりなりにも出来ているのか、考えた結果は手の動きと
ボールの動きからそのズレを読んで、飛ぶ方向を予測して見切り発車しているらしいと言う
結論になりました。更にそう言う能力を持った人は非常に稀な事も分って来ました。

   誰にも負けない生き方が見えて来ました。

   S40(1965)、S41、S42、インターハイ、及びS42年の国体に出場。
   16歳で2輪免許、17歳で軽自動車免許、18歳で普通自動車免許を取得。全て独学。


当時の校則にはバイクを禁ずる項目は無かったので学校に乗って行った事もあります。
そしてこの能力の延長上から何事もよく観察すると更に色々が見えて来まして、人より先に
読んで行動が出来る事は、つまり人の上に立てる可能性が高い事を発見しました。
そしてこの能力は持っている人は稀ですから、読みが成功すれば筆者は出遅れる事が無い
のですから誰にも負けないと言う事も分り、以後の筆者の生き方はこれが基本となりました。

1967年16歳で自動2輪を取得、運転免許はこのバイクの時もそうですが、自動車学校の
類には行かず、頭の中だけでアレしてコレしてを繰り返し、殆どそれだけで直接受験し、
バイクは2度目で合格でしたが、以後の軽4輪(当時16歳で受験可360㏄)、普通自動車、
大型特殊は全て1発で合格しました。

頭の中だけの練習ですから試験の本番もエンストせずに発進出来る確率は50%前後でした。
またS字カーブとクランクの両方を落とさずに通過出来る確率も50%前後でした。
試験本番の時もSは成功しましたがクランクで脱輪し、エンストも何回かありましたが、
めでたく1発で合格しました。自己採点との誤差は無く72点でした。




  


Posted by little-ken  at 15:19狩猟人生を振り返って、

2017年05月10日

著者略歴。 

1950年 本名:立石 憲司郎 、愛知県安城市、当時の二本木町、農家の長男に誕生。
    運動神経は遺伝で超最低クラスだった。

学歴:
1968年 愛知県立岡崎工業高校(電気科)卒。当時名門だったバレーボール科卒。
ボールのコースを予測出来る特技を開拓。インターハイ(1965~67)、国体(1966)出場。
1972年 トヨタ協豊会(産業大学)電気科卒。

職歴:
1968年 トヨタフォークリフトの設計と実験を5年間担当。
1973年 ヤマハ、ボルネオ島ジャングル駐在1年間。
    その後は新工場設立等の技術業務7年間に付く。
1980年 中小企業で8年間修行。

1989年 (有)サンシャ電装(産業車両の電装品の設計製造販売)。
1991年 (有)トレーラージャパン設立。(小型トレーラー販売、改造車登録申請、借家経営)、
2002年 ハンティングガイド、狩猟と銃関係のライター。(著書に狩猟大全集6編シリーズ等々)

飛び道具歴:
1968年 空気銃、70年 散弾銃、91年 ライフル銃取得。
    クレー(トラップ)射撃連続64枚、150mテーブル撃ち5発を12mmがベスト。
2002年 軽戦闘機と滑空機のライセンス取得。
    滑空機-プロペラ戦闘機-ジェット戦闘機のアクロ飛行術を持つ。

旅行歴:
2007年 秘境4万km(地球1周分の冒険)を出版。
    レンタカー海外秘境ドライブ、英語圏を主体に約10万km。国内は軽く5周以上、

釣り歴:
2008年より北海道の渓流釣りから開始。
    海水魚:黒カジキ256cm、ヒラマサ152cm、スズキ132cm、アジ90cm、真鯛89cm等々、
    淡水魚:ピラルク145cm、メコン大鯰128cm、レッドテール115cm、鎧ナマズ98cm等々。

狩猟歴:
1970年20歳を待って狩猟を開始、カモ類5000羽以上、ハト類4000羽以上、獣類1200頭余。
    (走行中の鹿350頭以上を含む.平均2.7発で走る鹿を倒す特技を持つ。
    最初の1頭の捕獲には9年間70余日を要し、10年間の捕獲はその1頭だけでした。
    しかし次の10年間では100頭、捕獲技術の進化を実感しました。
    更に次の10年間では何と1000頭、技術と言う物の奥深さを強く感じました。

2010年 エゾ鹿1000頭目を記録、
2015年ヒグマ6頭目を記録。
    海外猟はナミビア3回、NZ 5回。内外の合計捕獲数 ヒグマ6、エゾ鹿1051、本州鹿26、
    海外大型鹿類3、猪2、ウサギ25、タヌキ3、野牛1、ワイルドゴート63、ゼブラ1、
    アンテロープ類12、ポッサム25、その他12、合計1228頭。





  


Posted by little-ken  at 15:23狩猟人生を振り返って、

2017年05月18日

狩猟人生をふり返って:前書き&目次。





                        ・・・前書き・・・

1960年頃~1970年頃、日本中が狩猟ブーム&ガンブームになりました。
マスコミは挙って狩猟を取り上げ、マスコミ各社を初めとし、週刊誌の各誌から固い事で
お馴染みの小学館までがスポンサーになってアフリカ猟等の記事の特集を競った時代が
あります。写真は昭和40年(1965年)12月号の少年雑誌、猟銃を持った少年が表紙です。
筆者は1950年生まれですが、この1965年頃に銃に目覚めました。

西部劇の有名処も全てこの1960年前後に始まり、日本の独自文化であるモデルガンの
歴史もこの頃から、そして月刊狩猟雑誌「狩猟界」も1957年に始まりました。
大藪晴彦の「ザ・ビッグゲーム」は少し後の1970年頃にスポンサー付で行われた世界の
狩猟記です。テレビで海外狩猟を専門に扱う定期番組も短期でしたがありました。

そんな環境に刺激され、大人になったらやりたい事に銃を使った大物猟、
                              そして何時かはアフリカ猟が芽生えました。

右写真は短期ですが狩猟界のライバル雑誌で1982年の物、同時の狩猟はあんな服装で
猟犬を連れてキジ猟がメインでしたが、筆者はそれには憧れず、夢はアフリカ猟でした。



  狩猟人生をふり返って:目次。
-1.筆者略歴。                  http://ehg5205.militaryblog.jp/e851294.html          
0.高校時代。1965年~           http://ehg5205.militaryblog.jp/e851292.html      
1 .銃と狩猟の始まり。1968年~      http://ehg5205.militaryblog.jp/e847541.html      
2.ボルネオ島の狩猟。1973年。      http://ehg5205.militaryblog.jp/e848193.html  
3.海辺の製材工場時代の狩猟。1975年~ 
     http://ehg5205.militaryblog.jp/e847536.html  
4.連戦連敗の「本州鹿猟の始まり」。1982年~ 
     http://ehg5205.militaryblog.jp/e847539.html  

5.自前会社時代の狩猟、本州鹿1頭目の捕獲に成功。1990年。 
     http://ehg5205.militaryblog.jp/e847535.html
6.本州鹿トロフィー級を初捕獲、3週連続大成功。1993年。 
     http://ehg5205.militaryblog.jp/e847532.html 
7.ボルトアクション銃の購入と「エゾ鹿猟」の開始。1993年~ 
     http://ehg5205.militaryblog.jp/e847528.html 
8.エゾ鹿猟の師匠に出会う。1996年。 http://ehg5205.militaryblog.jp/e847329.html
9.実戦90日、2000~3000発でH&Kライフルの移動射撃完成。2000年。
     http://ehg5205.militaryblog.jp/e847326.html

10.北海道のエゾ鹿ガイドの実力。1999年。 
     http://ehg5205.militaryblog.jp/e847324.html 
11.短銃身のショットガン。1997年~  http://ehg5205.militaryblog.jp/e847320.html
12.交通事故後の狩猟、2002年~   http://ehg5205.militaryblog.jp/e847318.html  

13.スクールの狩猟ではエゾ鹿の習性が分かって来ました。2002年~ 
       http://ehg5205.militaryblog.jp/e847316.html     
     1:エゾ鹿の季節的行動。 
     2:エゾ鹿の群れの構造。
     3:エゾ鹿の大物に会える場所。
14.ライターの仕事と自前出版、2002年~  
       http://ehg5205.militaryblog.jp/e847314.html

15.ボルトアクション銃に戻した途端に憧れの全てが達成されました。2006年~  
   15-1.サコーのボルトで長年の夢の全てが達成。  
       http://ehg5205.militaryblog.jp/e847313.html
         1.早撃ちスナップショット。    
         2.150m早撃ち。        
         3.300m超の遠射。
         4.150mのランニング5発5中。 
         5.エゾ鹿超大物に迫力負け。
         6.猛獣ヒグマにも臆しない鋼の心。
   15-2.サコーを運用して新たに分かった8つの事。  
       http://ehg5205.militaryblog.jp/e848096.html
         1.遠射は回収が大変。
         2.連射が速く、よく当たる。
         3.ランニング射撃200m楽勝。
         4.命中率が約2倍
         5.ライフル銃の150mは近射。
         6.夢の5発5中。
         7.ヒグマ捕獲。          
         8.実戦100日クリアが夢達成のスタート。

16.ショットガンをSKB24インチに換えました。2007年~  
     http://ehg5205.militaryblog.jp/e847304.html
17.狩猟ピーク時代。2009年前後。   http://ehg5205.militaryblog.jp/e847301.html   
18.海外大物猟。2009年~        http://ehg5205.militaryblog.jp/e847297.html
19.国内狩猟の集大成。2012年~    http://ehg5205.militaryblog.jp/e847296.html 


20.海外ビッグバード猟の集大成。2011年~  
     http://ehg5205.militaryblog.jp/e847294.html
21.海外ビッグゲームの集大成。     http://ehg5205.militaryblog.jp/e847293.html    
22.フィッシングを始めました。2012年~  
     http://ehg5205.militaryblog.jp/e847291.html
23.銃を卒業。2018年~      http://ehg5205.militaryblog.jp/e847290.html  

24.最後に。                  http://ehg5205.militaryblog.jp/e847281.html
     1.普通のハンターの行動。    
     2.正しい銃の取り扱い。    
     3.超スローモーション。
     4.バレーボールの時。       
     5.不得意側に成功の原点がある。
     6.自前会社の思い出。
     7.下請け会社にならないか?
     8.協力会社にならないか?
     9.その後の自前会社。






  


Posted by little-ken  at 15:51狩猟人生を振り返って、