2017年05月10日
狩猟人生、そのゼロ:人生のベースとなった高校時代:1965年~。
0.高校時代。1965年~
筆者の人生を語るにはこの高校時代を抜く事は出来ません。
1965年、周りからは大学進学の為の名門高校受験を勧められましたが、勉強をしなくても
済みそうな岡崎工業高校に逃げました。
電気科を選んだのも機械科より倍率が低かったと言うそれだけの理由でした。
当時の岡崎工業は成績上位10%以内が必要な名門高校でしたが、時代の変化は確実に
近くまで来ており、3年後からは大学進学が当たり前となり、工業高校は2流生徒が通う
学校となってしまいました。
筆者はトヨタフォークリフト設計部門に入社出来ましたが、最後の高卒エンジニアとなりました。
1.名門と知らずバレーボール部を選択、人生が100%変わりました。
ここがバレーボールで超名門とは知らず、中学時代と同様に名前だけ所属のつもりで
バレーボール部に入部、入部してすぐにそんな様子でない事はすぐに分かりましたが、
間違って入部しましたと言う言葉が出せませんでした。
望んでいた訳ではありませんが、結果的にインターハイや国体にまで行く事になり、人生で
最大の転機となりました。
ここの特訓の1つずつが全て絶望的困難を伴い、当初はどんなに頑張っても20~30%の
達成率で全員がダウンします。
すると2年生が見本を見せます。当然ですが全員楽勝でクリアです。
そしてまた1年生の順番です。途中でダウンするとまた2年生の見本があり、永遠にそれが
繰り返され、全員揃ってやり遂げない限り終わる事はありません。
2.各種の特訓はエマージェンシーパワーを引き出す為の儀式。
そうこうしている内にエマージェンシーパワーに火が付き何とか全員クリアしてその日は
終わり、やれやれです。
翌日にはまた違う種目が待っており、同じ様な事が繰り返されます。また何かミスをすると
これまた絶望的な罰ゲーム的トレーニングが待っていますが、2年生が必ず見本を見せて
くれるのでやれないとは言えません。
そんな日が半年続き、何時も如何にして辞めるか通りの良い理由を考えていました。
これで行こうと概ね作戦が決まりかけた頃、何時も誰かにその作戦を使われてしまい、また
再度理由を見付け様ともがく日々が続きました。
名門ですから新入生は我と思わん輩が50人ほど集まりましたが、どんどん辞めて行きました。
結局は決断力に乏しく卒業の方が早く来てしまった為、バレーボール部を卒業する事になり
ましたが、最後まで残ったのは6名でした。
ゼッケン7が私。右写真:誰にも切らせた事の無い髪も全国大会の時だけ切りました。
3.僅か半年でスーパーマンになれました。
連日の特訓に耐え半年後、気が付くと何時の間にかスーパー体力の持ち主になっていました。
そしてミスをして罰ゲームを頂く事もほぼ無くなりました。今にして思えば、あの絶望的な
トレーニングはエマージェンシーパワーを常用側に引き出す為の儀式だったと思います。
脚はあまり速くない方でしたので100m走は14秒強、200mは29秒、400mは1分ジャスト
と余り速度を落とさずに頑張れました。
それで行けば4分で1600m走れる計算になりますが、そうは行かず1500mは4分を僅か
数秒ですがハミ出し、切る事は出来ませんでした。
半年で概ね全ての特訓項目はクリア出来る様になりましたが、1つだけ難題が残っていました。
それはパスを往復1000回連続で続ける事でした。1000回行えば必ず数回はミスが出て
続けられなくなってしまい、 また最初からやり直しです。
結局これが出来る様にするには自らのミス率を一桁低下させる事も必要でしたが、相手にミス
が出た時、出てからでは運動神経の良くない筆者では特に対応不十分となり、結局は相手の
手とボールのずれから飛ぶ方向を予測が出来る様な特技が付いて、やっとこれをクリア出来る
様になりました。これは他のプレーの全てに応用が可能でした。
アタックを打たれてからでは0.3秒程度でボールは手元に来てしまいます。
筆者の反射神経は後述で述べますが、通常の2倍値の0.7秒強でした。
つまりアタックを打つかなり前に行動を起こさない限り、絶対にレシーブ出来ないのです。
「その様な夢物語が可能なのか?」 結果として可能でしたから筆者の今があります。
名ハンターになれたのもそう言う特殊能力のお陰であり、数々の大きな仕事もそう言う先読み
能力のお陰でした。後追いの仕事では大変だけで、大きな成果は上げられず、仕事の出来
不出来は如何に読んでいるかで決まります。
4.特殊能力の開花。
結局その特殊能力開花のお陰で1965~67のインターハイ3回と66年の国体に出場する
事になりましたが、それは後刻反射時間が0.7秒強である事が分かって、結果的にそう言う
特能力が身に付いた事が分かった次第です。
それまではバレーボールに適応出来る様になって苦手だった運動神経も改善されたと思って
いました。ゼッケンは2年生の時からずっと7番、得意はオープン攻撃とブロック、この二つは
誰にも負けませんでした。
こうして体力及び運動能力は著しく改善され、筆者は最底辺の運動ダメ人間の代表から上級
の運動選手までの両法を体験出来ました。そしてその改善範囲は体力だけではなく、
反射時間(運動神経)も訓練次第で改善出来ると思っていました。
ある時に実習で暇がありましたので120分の1秒が測れるストップウォッチを作り、約100人
の反射時間を測定してみました。
それによりますと平均値は0.35秒強付近にあり、日頃運動神経が優れていると言う人は0.25秒
程度で反応しました。
序でに言えば、各コートの大きさ等はこの0.3秒を基準に出来ており、運動神経が良い人で読み
が当たればイージーに処理出来ますが、そうでなければ対応が難しいレベルに設定されています。
すでにインターハイ選手となっていた筆者の反応時間は絶対に良い方の側に属する筈でしたが、
先述の様に超最悪の0.7秒強でした。装置が誤動作しているのかと思いましたが、正常でした。
つまり運動神経は遺伝であって、直し様が無かったのです。
それにしてはなぜバレーボールがまがりなりにも出来ているのか、考えた結果は手の動きと
ボールの動きからそのズレを読んで、飛ぶ方向を予測して見切り発車しているらしいと言う
結論になりました。更にそう言う能力を持った人は非常に稀な事も分って来ました。
5.誰にも負けない生き方が見えて来ました。
S40(1965)、S41、S42、インターハイ、及びS42年の国体に出場。
16歳で2輪免許、17歳で軽自動車免許、18歳で普通自動車免許を取得。全て独学。
当時の校則にはバイクを禁ずる項目は無かったので学校に乗って行った事もあります。
そしてこの能力の延長上から何事もよく観察すると更に色々が見えて来まして、人より先に
読んで行動が出来る事は、つまり人の上に立てる可能性が高い事を発見しました。
そしてこの能力は持っている人は稀ですから、読みが成功すれば筆者は出遅れる事が無い
のですから誰にも負けないと言う事も分り、以後の筆者の生き方はこれが基本となりました。
1967年16歳で自動2輪を取得、運転免許はこのバイクの時もそうですが、自動車学校の
類には行かず、頭の中だけでアレしてコレしてを繰り返し、殆どそれだけで直接受験し、
バイクは2度目で合格でしたが、以後の軽4輪(当時16歳で受験可360㏄)、普通自動車、
大型特殊は全て1発で合格しました。
頭の中だけの練習ですから試験の本番もエンストせずに発進出来る確率は50%前後でした。
またS字カーブとクランクの両方を落とさずに通過出来る確率も50%前後でした。
試験本番の時もSは成功しましたがクランクで脱輪し、エンストも何回かありましたが、
めでたく1発で合格しました。自己採点との誤差は無く72点でした。
筆者の人生を語るにはこの高校時代を抜く事は出来ません。
1965年、周りからは大学進学の為の名門高校受験を勧められましたが、勉強をしなくても
済みそうな岡崎工業高校に逃げました。
電気科を選んだのも機械科より倍率が低かったと言うそれだけの理由でした。
当時の岡崎工業は成績上位10%以内が必要な名門高校でしたが、時代の変化は確実に
近くまで来ており、3年後からは大学進学が当たり前となり、工業高校は2流生徒が通う
学校となってしまいました。
筆者はトヨタフォークリフト設計部門に入社出来ましたが、最後の高卒エンジニアとなりました。
1.名門と知らずバレーボール部を選択、人生が100%変わりました。
ここがバレーボールで超名門とは知らず、中学時代と同様に名前だけ所属のつもりで
バレーボール部に入部、入部してすぐにそんな様子でない事はすぐに分かりましたが、
間違って入部しましたと言う言葉が出せませんでした。
望んでいた訳ではありませんが、結果的にインターハイや国体にまで行く事になり、人生で
最大の転機となりました。
ここの特訓の1つずつが全て絶望的困難を伴い、当初はどんなに頑張っても20~30%の
達成率で全員がダウンします。
すると2年生が見本を見せます。当然ですが全員楽勝でクリアです。
そしてまた1年生の順番です。途中でダウンするとまた2年生の見本があり、永遠にそれが
繰り返され、全員揃ってやり遂げない限り終わる事はありません。
2.各種の特訓はエマージェンシーパワーを引き出す為の儀式。
そうこうしている内にエマージェンシーパワーに火が付き何とか全員クリアしてその日は
終わり、やれやれです。
翌日にはまた違う種目が待っており、同じ様な事が繰り返されます。また何かミスをすると
これまた絶望的な罰ゲーム的トレーニングが待っていますが、2年生が必ず見本を見せて
くれるのでやれないとは言えません。
そんな日が半年続き、何時も如何にして辞めるか通りの良い理由を考えていました。
これで行こうと概ね作戦が決まりかけた頃、何時も誰かにその作戦を使われてしまい、また
再度理由を見付け様ともがく日々が続きました。
名門ですから新入生は我と思わん輩が50人ほど集まりましたが、どんどん辞めて行きました。
結局は決断力に乏しく卒業の方が早く来てしまった為、バレーボール部を卒業する事になり
ましたが、最後まで残ったのは6名でした。
ゼッケン7が私。右写真:誰にも切らせた事の無い髪も全国大会の時だけ切りました。
3.僅か半年でスーパーマンになれました。
連日の特訓に耐え半年後、気が付くと何時の間にかスーパー体力の持ち主になっていました。
そしてミスをして罰ゲームを頂く事もほぼ無くなりました。今にして思えば、あの絶望的な
トレーニングはエマージェンシーパワーを常用側に引き出す為の儀式だったと思います。
脚はあまり速くない方でしたので100m走は14秒強、200mは29秒、400mは1分ジャスト
と余り速度を落とさずに頑張れました。
それで行けば4分で1600m走れる計算になりますが、そうは行かず1500mは4分を僅か
数秒ですがハミ出し、切る事は出来ませんでした。
半年で概ね全ての特訓項目はクリア出来る様になりましたが、1つだけ難題が残っていました。
それはパスを往復1000回連続で続ける事でした。1000回行えば必ず数回はミスが出て
続けられなくなってしまい、 また最初からやり直しです。
結局これが出来る様にするには自らのミス率を一桁低下させる事も必要でしたが、相手にミス
が出た時、出てからでは運動神経の良くない筆者では特に対応不十分となり、結局は相手の
手とボールのずれから飛ぶ方向を予測が出来る様な特技が付いて、やっとこれをクリア出来る
様になりました。これは他のプレーの全てに応用が可能でした。
アタックを打たれてからでは0.3秒程度でボールは手元に来てしまいます。
筆者の反射神経は後述で述べますが、通常の2倍値の0.7秒強でした。
つまりアタックを打つかなり前に行動を起こさない限り、絶対にレシーブ出来ないのです。
「その様な夢物語が可能なのか?」 結果として可能でしたから筆者の今があります。
名ハンターになれたのもそう言う特殊能力のお陰であり、数々の大きな仕事もそう言う先読み
能力のお陰でした。後追いの仕事では大変だけで、大きな成果は上げられず、仕事の出来
不出来は如何に読んでいるかで決まります。
4.特殊能力の開花。
結局その特殊能力開花のお陰で1965~67のインターハイ3回と66年の国体に出場する
事になりましたが、それは後刻反射時間が0.7秒強である事が分かって、結果的にそう言う
特能力が身に付いた事が分かった次第です。
それまではバレーボールに適応出来る様になって苦手だった運動神経も改善されたと思って
いました。ゼッケンは2年生の時からずっと7番、得意はオープン攻撃とブロック、この二つは
誰にも負けませんでした。
こうして体力及び運動能力は著しく改善され、筆者は最底辺の運動ダメ人間の代表から上級
の運動選手までの両法を体験出来ました。そしてその改善範囲は体力だけではなく、
反射時間(運動神経)も訓練次第で改善出来ると思っていました。
ある時に実習で暇がありましたので120分の1秒が測れるストップウォッチを作り、約100人
の反射時間を測定してみました。
それによりますと平均値は0.35秒強付近にあり、日頃運動神経が優れていると言う人は0.25秒
程度で反応しました。
序でに言えば、各コートの大きさ等はこの0.3秒を基準に出来ており、運動神経が良い人で読み
が当たればイージーに処理出来ますが、そうでなければ対応が難しいレベルに設定されています。
すでにインターハイ選手となっていた筆者の反応時間は絶対に良い方の側に属する筈でしたが、
先述の様に超最悪の0.7秒強でした。装置が誤動作しているのかと思いましたが、正常でした。
つまり運動神経は遺伝であって、直し様が無かったのです。
それにしてはなぜバレーボールがまがりなりにも出来ているのか、考えた結果は手の動きと
ボールの動きからそのズレを読んで、飛ぶ方向を予測して見切り発車しているらしいと言う
結論になりました。更にそう言う能力を持った人は非常に稀な事も分って来ました。
5.誰にも負けない生き方が見えて来ました。
S40(1965)、S41、S42、インターハイ、及びS42年の国体に出場。
16歳で2輪免許、17歳で軽自動車免許、18歳で普通自動車免許を取得。全て独学。
当時の校則にはバイクを禁ずる項目は無かったので学校に乗って行った事もあります。
そしてこの能力の延長上から何事もよく観察すると更に色々が見えて来まして、人より先に
読んで行動が出来る事は、つまり人の上に立てる可能性が高い事を発見しました。
そしてこの能力は持っている人は稀ですから、読みが成功すれば筆者は出遅れる事が無い
のですから誰にも負けないと言う事も分り、以後の筆者の生き方はこれが基本となりました。
1967年16歳で自動2輪を取得、運転免許はこのバイクの時もそうですが、自動車学校の
類には行かず、頭の中だけでアレしてコレしてを繰り返し、殆どそれだけで直接受験し、
バイクは2度目で合格でしたが、以後の軽4輪(当時16歳で受験可360㏄)、普通自動車、
大型特殊は全て1発で合格しました。
頭の中だけの練習ですから試験の本番もエンストせずに発進出来る確率は50%前後でした。
またS字カーブとクランクの両方を落とさずに通過出来る確率も50%前後でした。
試験本番の時もSは成功しましたがクランクで脱輪し、エンストも何回かありましたが、
めでたく1発で合格しました。自己採点との誤差は無く72点でした。
狩猟人生をふり返って:前書き&目次。
著者略歴。
狩猟人生、その1:銃18歳、狩猟20歳、狩猟人生の始まり:1968年~。
狩猟人生、その2:ボルネオ島ジャングル駐在を拝命:1973年。
狩猟人生、その3:帰国後のカモ撃ちバイト:1975年~。
狩猟人生、その4:本州鹿巻狩り連戦連敗の9年間:1982年~。
著者略歴。
狩猟人生、その1:銃18歳、狩猟20歳、狩猟人生の始まり:1968年~。
狩猟人生、その2:ボルネオ島ジャングル駐在を拝命:1973年。
狩猟人生、その3:帰国後のカモ撃ちバイト:1975年~。
狩猟人生、その4:本州鹿巻狩り連戦連敗の9年間:1982年~。
Posted by little-ken
at 15:19
│狩猟人生を振り返って、