2017年04月23日

狩猟人生、その4:本州鹿巻狩り連戦連敗の9年間:1982年~。

連戦連敗の「本州鹿猟の始まり」。1982年~
1982年頃から時代は変わり、焼き鳥は中国で100%加工済みの物を使う様になり、カモが
売れなくなりました。それで予ねてから憧れていた大物猟の世界に移りましたが、それは予想
とは大きく違う世界でした。
仕事的にはこの2年前から自前会社設立準備の為、中小企業に修行に行っておりました。

当時愛知県内にはまだ鹿が少なく、猟場は片道3時間掛けた隣県の三重県の中央付近でした。
カモ数千羽撃墜の実績から実戦射撃は誰にも負けない程の抜群の自信があり、鹿に出会える
事さえ出来れば捕獲は極めて容易と思っていました。ところが現実はそう甘い物ではなく、
結果的には非常に良い勉強になりました。

結果的に7年の50余日間は鹿の姿さえ見せてもらえず連日沈黙の敗戦が続き、7年目の
1989年やっと初失中を記録しました。

後刻どうして鹿が来なかったのかの原因は分かりましたが、それは「さあ、何処からでも来なさい」、
「トンコロにして差し上げましょう」と「殺気」を振り撒いていたのです。
鹿に限らず野生動物の五感は人間の1000倍以上も優れています。
鹿の側からすれば筆者の視界外で射手の存在を知り、迂回していたので姿さえ見せてもらえ
なかったのです。

間違って入部した名門バレー部でさえ逃げ出さなかった筆者です。それを今回は自ら希望して
始めたのですから獲れないからの如きで逃げ出す訳には行きません。これは筆者の信条です。
同時期に始めた他の新人3名は3年前後で 全員が獲れないからの理由で当の昔に辞めて
行きましたから、筆者は余計に意地でも辞められません。

そうは言う物の全体的にも余りに捕獲率は低く、0.05頭/日人の程度でした。
つまり20回出撃してやっと1頭となりますが、もちろん新人はこの枠外です。
余りに捕獲率が低いので辞める決意をしましたが、それは1頭を捕獲してからとしました。

1983年から銃砲専門月刊誌であるガン誌ライターとなりましたが、まもなく雑誌が狩猟記事
を扱わなくなり短命なライターに終わりました。
そうそう1頭目の失中原因は14-6項で詳しく述べますが、オープンサイト自体の欠陥でした。
近距離には適していると言われていたオープンサイトですが、本当は適していなかったのでした。
狩猟人生、その4:本州鹿巻狩り連戦連敗の9年間:1982年~。
  レミントン1100の20番ディア―ガン。スラグ専用銃ですが、初失中後にとにかく
  被弾させる事を最大優先しバックショットを運用に変更した。












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Posted by little-ken  at 18:22 │狩猟人生を振り返って、