2017年04月23日
狩猟人生、その3:帰国後のカモ撃ちバイト:1975年~。
3.海辺の製材工場時代の狩猟。1975年~
1975年、前記の様にヤマハのボルネオ島プロジェクトの後工程に位置する製材工場合理化
の仕事を戴きました。
製材工場があったのは愛知県豊橋市の海岸部、そこは全国NO.2のカモの渡来地
(銃猟禁止区域)の隣ですから、目の前にはカモがたくさんいます。
ハンターならばこれを撃たないと言う手はありません。
筆者はここの仕事になった1975年から本格的カモ猟開始、2連発では寂しいので当時は
まだ5連発であったガス圧作動式セミオートSKB1900を取得しました。
筆者は本社から派遣されており、工場の勤務体制に 従う必要はなく、毎朝カモ猟を
1~2時間してから遅め 出勤をしていました。
当初は未熟ですからカモが余り獲れず回収は寒中水泳法でした。
やがて後述の手法の組合せでカモがたくさん獲れる様になるとこの寒中水泳法は余りに
大変で、色々試行錯誤の末、結果的に水の流れと風の向きを見て回収を先に考えた狩猟を
行う様になりました。つまり撃っても獲物が流れ着かないのであれば撃っても意味がありません。
捕獲はその条件が整うまで待つと言うやり方で、結果的にカモの習性に精通する事になり
出会いが倍加しました。
数年後には秒速3発の速射法が完成し、これで捕獲率は一気に3倍近くに向上、更に安価な
射撃用の小粒7.5号弾の有効度が高い事を発見、これにより弾代は半額になり、それで
いながら更に命中率は倍加、つまり合計では6倍の捕獲量にもなったのです。
実戦の場数を多数踏むと狩猟技術は更に向上、遂には一群れから良い獲物だけを選んで
一瞬の1連射で当時8羽の定数を希望の場所に墜せる技術を身に付けました。
従ってカモの回収に時間が掛からず長靴すら不要でした。
「そんな夢の様な狩猟が可能なのか」、可能でしたから特権乱用でカモ撃ちは良いアルバイト
になり、朝は遅めの出勤ですが、夕方には早目の退社で夕方ラッシュの前に朝獲ったカモを
売りに出掛けていました。
当時は高度成長時代で庶民向けの炉端屋や焼鳥屋がカモを欲しがり、海ガモでも1羽
800円弱で売れました。これは月給が5万円の時代にシーズン(3ヶ月)に数百羽を売りまして
合計30万程のお小使いになりました。
この頃はカモ猟にシーズン3ヶ月に3000発を消費していました。
これだけ撃てば誰でも少しは上手くなれます。
カモ撃ちは儲かるバイトで、この費用は主に旅行の費用となりました。
SKB1900はその後50年間弱に同型式5丁を使い継ぎ、推定カモ5千羽以上&害鳥のドバト
含むハト類4千羽以上を 捕獲する事になりますが、それはこの時に得た射撃技術や狩猟
ノウハウのお陰で、それは後刻のお話にします。
1975年、前記の様にヤマハのボルネオ島プロジェクトの後工程に位置する製材工場合理化
の仕事を戴きました。
製材工場があったのは愛知県豊橋市の海岸部、そこは全国NO.2のカモの渡来地
(銃猟禁止区域)の隣ですから、目の前にはカモがたくさんいます。
ハンターならばこれを撃たないと言う手はありません。
筆者はここの仕事になった1975年から本格的カモ猟開始、2連発では寂しいので当時は
まだ5連発であったガス圧作動式セミオートSKB1900を取得しました。
筆者は本社から派遣されており、工場の勤務体制に 従う必要はなく、毎朝カモ猟を
1~2時間してから遅め 出勤をしていました。
当初は未熟ですからカモが余り獲れず回収は寒中水泳法でした。
やがて後述の手法の組合せでカモがたくさん獲れる様になるとこの寒中水泳法は余りに
大変で、色々試行錯誤の末、結果的に水の流れと風の向きを見て回収を先に考えた狩猟を
行う様になりました。つまり撃っても獲物が流れ着かないのであれば撃っても意味がありません。
捕獲はその条件が整うまで待つと言うやり方で、結果的にカモの習性に精通する事になり
出会いが倍加しました。
数年後には秒速3発の速射法が完成し、これで捕獲率は一気に3倍近くに向上、更に安価な
射撃用の小粒7.5号弾の有効度が高い事を発見、これにより弾代は半額になり、それで
いながら更に命中率は倍加、つまり合計では6倍の捕獲量にもなったのです。
実戦の場数を多数踏むと狩猟技術は更に向上、遂には一群れから良い獲物だけを選んで
一瞬の1連射で当時8羽の定数を希望の場所に墜せる技術を身に付けました。
従ってカモの回収に時間が掛からず長靴すら不要でした。
「そんな夢の様な狩猟が可能なのか」、可能でしたから特権乱用でカモ撃ちは良いアルバイト
になり、朝は遅めの出勤ですが、夕方には早目の退社で夕方ラッシュの前に朝獲ったカモを
売りに出掛けていました。
当時は高度成長時代で庶民向けの炉端屋や焼鳥屋がカモを欲しがり、海ガモでも1羽
800円弱で売れました。これは月給が5万円の時代にシーズン(3ヶ月)に数百羽を売りまして
合計30万程のお小使いになりました。
この頃はカモ猟にシーズン3ヶ月に3000発を消費していました。
これだけ撃てば誰でも少しは上手くなれます。
カモ撃ちは儲かるバイトで、この費用は主に旅行の費用となりました。
SKB1900はその後50年間弱に同型式5丁を使い継ぎ、推定カモ5千羽以上&害鳥のドバト
含むハト類4千羽以上を 捕獲する事になりますが、それはこの時に得た射撃技術や狩猟
ノウハウのお陰で、それは後刻のお話にします。
狩猟人生をふり返って:前書き&目次。
著者略歴。
狩猟人生、そのゼロ:人生のベースとなった高校時代:1965年~。
狩猟人生、その1:銃18歳、狩猟20歳、狩猟人生の始まり:1968年~。
狩猟人生、その2:ボルネオ島ジャングル駐在を拝命:1973年。
狩猟人生、その4:本州鹿巻狩り連戦連敗の9年間:1982年~。
著者略歴。
狩猟人生、そのゼロ:人生のベースとなった高校時代:1965年~。
狩猟人生、その1:銃18歳、狩猟20歳、狩猟人生の始まり:1968年~。
狩猟人生、その2:ボルネオ島ジャングル駐在を拝命:1973年。
狩猟人生、その4:本州鹿巻狩り連戦連敗の9年間:1982年~。
Posted by little-ken
at 18:25
│狩猟人生を振り返って、