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Posted by ミリタリーブログ  at 

2017年05月18日

狩猟人生をふり返って:前書き&目次。





                        ・・・前書き・・・

1960年頃~1970年頃、日本中が狩猟ブーム&ガンブームになりました。
マスコミは挙って狩猟を取り上げ、マスコミ各社を初めとし、週刊誌の各誌から固い事で
お馴染みの小学館までがスポンサーになってアフリカ猟等の記事の特集を競った時代が
あります。写真は昭和40年(1965年)12月号の少年雑誌、猟銃を持った少年が表紙です。
筆者は1950年生まれですが、この1965年頃に銃に目覚めました。

西部劇の有名処も全てこの1960年前後に始まり、日本の独自文化であるモデルガンの
歴史もこの頃から、そして月刊狩猟雑誌「狩猟界」も1957年に始まりました。
大藪晴彦の「ザ・ビッグゲーム」は少し後の1970年頃にスポンサー付で行われた世界の
狩猟記です。テレビで海外狩猟を専門に扱う定期番組も短期でしたがありました。

そんな環境に刺激され、大人になったらやりたい事に銃を使った大物猟、
                              そして何時かはアフリカ猟が芽生えました。

右写真は短期ですが狩猟界のライバル雑誌で1982年の物、同時の狩猟はあんな服装で
猟犬を連れてキジ猟がメインでしたが、筆者はそれには憧れず、夢はアフリカ猟でした。



  狩猟人生をふり返って:目次。
-1.筆者略歴。                  http://ehg5205.militaryblog.jp/e851294.html          
0.高校時代。1965年~           http://ehg5205.militaryblog.jp/e851292.html      
1 .銃と狩猟の始まり。1968年~      http://ehg5205.militaryblog.jp/e847541.html      
2.ボルネオ島の狩猟。1973年。      http://ehg5205.militaryblog.jp/e848193.html  
3.海辺の製材工場時代の狩猟。1975年~ 
     http://ehg5205.militaryblog.jp/e847536.html  
4.連戦連敗の「本州鹿猟の始まり」。1982年~ 
     http://ehg5205.militaryblog.jp/e847539.html  

5.自前会社時代の狩猟、本州鹿1頭目の捕獲に成功。1990年。 
     http://ehg5205.militaryblog.jp/e847535.html
6.本州鹿トロフィー級を初捕獲、3週連続大成功。1993年。 
     http://ehg5205.militaryblog.jp/e847532.html 
7.ボルトアクション銃の購入と「エゾ鹿猟」の開始。1993年~ 
     http://ehg5205.militaryblog.jp/e847528.html 
8.エゾ鹿猟の師匠に出会う。1996年。 http://ehg5205.militaryblog.jp/e847329.html
9.実戦90日、2000~3000発でH&Kライフルの移動射撃完成。2000年。
     http://ehg5205.militaryblog.jp/e847326.html

10.北海道のエゾ鹿ガイドの実力。1999年。 
     http://ehg5205.militaryblog.jp/e847324.html 
11.短銃身のショットガン。1997年~  http://ehg5205.militaryblog.jp/e847320.html
12.交通事故後の狩猟、2002年~   http://ehg5205.militaryblog.jp/e847318.html  

13.スクールの狩猟ではエゾ鹿の習性が分かって来ました。2002年~ 
       http://ehg5205.militaryblog.jp/e847316.html     
     1:エゾ鹿の季節的行動。 
     2:エゾ鹿の群れの構造。
     3:エゾ鹿の大物に会える場所。
14.ライターの仕事と自前出版、2002年~  
       http://ehg5205.militaryblog.jp/e847314.html

15.ボルトアクション銃に戻した途端に憧れの全てが達成されました。2006年~  
   15-1.サコーのボルトで長年の夢の全てが達成。  
       http://ehg5205.militaryblog.jp/e847313.html
         1.早撃ちスナップショット。    
         2.150m早撃ち。        
         3.300m超の遠射。
         4.150mのランニング5発5中。 
         5.エゾ鹿超大物に迫力負け。
         6.猛獣ヒグマにも臆しない鋼の心。
   15-2.サコーを運用して新たに分かった8つの事。  
       http://ehg5205.militaryblog.jp/e848096.html
         1.遠射は回収が大変。
         2.連射が速く、よく当たる。
         3.ランニング射撃200m楽勝。
         4.命中率が約2倍
         5.ライフル銃の150mは近射。
         6.夢の5発5中。
         7.ヒグマ捕獲。          
         8.実戦100日クリアが夢達成のスタート。

16.ショットガンをSKB24インチに換えました。2007年~  
     http://ehg5205.militaryblog.jp/e847304.html
17.狩猟ピーク時代。2009年前後。   http://ehg5205.militaryblog.jp/e847301.html   
18.海外大物猟。2009年~        http://ehg5205.militaryblog.jp/e847297.html
19.国内狩猟の集大成。2012年~    http://ehg5205.militaryblog.jp/e847296.html 


20.海外ビッグバード猟の集大成。2011年~  
     http://ehg5205.militaryblog.jp/e847294.html
21.海外ビッグゲームの集大成。     http://ehg5205.militaryblog.jp/e847293.html    
22.フィッシングを始めました。2012年~  
     http://ehg5205.militaryblog.jp/e847291.html
23.銃を卒業。2018年~      http://ehg5205.militaryblog.jp/e847290.html  

24.最後に。                  http://ehg5205.militaryblog.jp/e847281.html
     1.普通のハンターの行動。    
     2.正しい銃の取り扱い。    
     3.超スローモーション。
     4.バレーボールの時。       
     5.不得意側に成功の原点がある。
     6.自前会社の思い出。
     7.下請け会社にならないか?
     8.協力会社にならないか?
     9.その後の自前会社。






  


Posted by little-ken  at 15:51狩猟人生を振り返って、

2017年05月10日

著者略歴。 

1950年 本名:立石 憲司郎 、愛知県安城市、当時の二本木町、農家の長男に誕生。
    運動神経は遺伝で超最低クラスだった。

学歴:
1968年 愛知県立岡崎工業高校(電気科)卒。当時名門だったバレーボール科卒。
ボールのコースを予測出来る特技を開拓。インターハイ(1965~67)、国体(1966)出場。
1972年 トヨタ協豊会(産業大学)電気科卒。

職歴:
1968年 トヨタフォークリフトの設計と実験を5年間担当。
1973年 ヤマハ、ボルネオ島ジャングル駐在1年間。
    その後は新工場設立等の技術業務7年間に付く。
1980年 中小企業で8年間修行。

1989年 (有)サンシャ電装(産業車両の電装品の設計製造販売)。
1991年 (有)トレーラージャパン設立。(小型トレーラー販売、改造車登録申請、借家経営)、
2002年 ハンティングガイド、狩猟と銃関係のライター。(著書に狩猟大全集6編シリーズ等々)

飛び道具歴:
1968年 空気銃、70年 散弾銃、91年 ライフル銃取得。
    クレー(トラップ)射撃連続64枚、150mテーブル撃ち5発を12mmがベスト。
2002年 軽戦闘機と滑空機のライセンス取得。
    滑空機-プロペラ戦闘機-ジェット戦闘機のアクロ飛行術を持つ。

旅行歴:
2007年 秘境4万km(地球1周分の冒険)を出版。
    レンタカー海外秘境ドライブ、英語圏を主体に約10万km。国内は軽く5周以上、

釣り歴:
2008年より北海道の渓流釣りから開始。
    海水魚:黒カジキ256cm、ヒラマサ152cm、スズキ132cm、アジ90cm、真鯛89cm等々、
    淡水魚:ピラルク145cm、メコン大鯰128cm、レッドテール115cm、鎧ナマズ98cm等々。

狩猟歴:
1970年20歳を待って狩猟を開始、カモ類5000羽以上、ハト類4000羽以上、獣類1200頭余。
    (走行中の鹿350頭以上を含む.平均2.7発で走る鹿を倒す特技を持つ。
    最初の1頭の捕獲には9年間70余日を要し、10年間の捕獲はその1頭だけでした。
    しかし次の10年間では100頭、捕獲技術の進化を実感しました。
    更に次の10年間では何と1000頭、技術と言う物の奥深さを強く感じました。

2010年 エゾ鹿1000頭目を記録、
2015年ヒグマ6頭目を記録。
    海外猟はナミビア3回、NZ 5回。内外の合計捕獲数 ヒグマ6、エゾ鹿1051、本州鹿26、
    海外大型鹿類3、猪2、ウサギ25、タヌキ3、野牛1、ワイルドゴート63、ゼブラ1、
    アンテロープ類12、ポッサム25、その他12、合計1228頭。





  


Posted by little-ken  at 15:23狩猟人生を振り返って、

2017年05月10日

狩猟人生、そのゼロ:人生のベースとなった高校時代:1965年~。

高校時代。1965年~
筆者の人生を語るにはこの高校時代を抜く事は出来ません。
1965年、周りからは大学進学の為の名門高校受験を勧められましたが、勉強をしなくても
済みそうな岡崎工業高校に逃げました。
電気科を選んだのも機械科より倍率が低かったと言うそれだけの理由でした。

当時の岡崎工業は成績上位10%以内が必要な名門高校でしたが、時代の変化は確実に
近くまで来ており、3年後からは大学進学が当たり前となり、工業高校は2流生徒が通う
学校となってしまいました。
筆者はトヨタフォークリフト設計部門に入社出来ましたが、最後の高卒エンジニアとなりました。

   名門と知らずバレーボール部を選択、人生が100%変わりました。
ここがバレーボールで超名門とは知らず、中学時代と同様に名前だけ所属のつもりで
バレーボール部に入部、入部してすぐにそんな様子でない事はすぐに分かりましたが、
間違って入部しましたと言う言葉が出せませんでした。
望んでいた訳ではありませんが、結果的にインターハイや国体にまで行く事になり、人生で
最大の転機となりました。

ここの特訓の1つずつが全て絶望的困難を伴い、当初はどんなに頑張っても20~30%の
達成率で全員がダウンします。
すると2年生が見本を見せます。当然ですが全員楽勝でクリアです。
そしてまた1年生の順番です。途中でダウンするとまた2年生の見本があり、永遠にそれが
繰り返され、全員揃ってやり遂げない限り終わる事はありません。

   各種の特訓はエマージェンシーパワーを引き出す為の儀式。
そうこうしている内にエマージェンシーパワーに火が付き何とか全員クリアしてその日は
終わり、やれやれです。
翌日にはまた違う種目が待っており、同じ様な事が繰り返されます。また何かミスをすると
これまた絶望的な罰ゲーム的トレーニングが待っていますが、2年生が必ず見本を見せて
くれるのでやれないとは言えません。

そんな日が半年続き、何時も如何にして辞めるか通りの良い理由を考えていました。
これで行こうと概ね作戦が決まりかけた頃、何時も誰かにその作戦を使われてしまい、また
再度理由を見付け様ともがく日々が続きました。
名門ですから新入生は我と思わん輩が50人ほど集まりましたが、どんどん辞めて行きました。
結局は決断力に乏しく卒業の方が早く来てしまった為、バレーボール部を卒業する事になり
ましたが、最後まで残ったのは6名でした。

   ゼッケン7が私。右写真:誰にも切らせた事の無い髪も全国大会の時だけ切りました。

   僅か半年でスーパーマンになれました。
連日の特訓に耐え半年後、気が付くと何時の間にかスーパー体力の持ち主になっていました。
そしてミスをして罰ゲームを頂く事もほぼ無くなりました。今にして思えば、あの絶望的な
トレーニングはエマージェンシーパワーを常用側に引き出す為の儀式だったと思います。

脚はあまり速くない方でしたので100m走は14秒強、200mは29秒、400mは1分ジャスト
と余り速度を落とさずに頑張れました。
それで行けば4分で1600m走れる計算になりますが、そうは行かず1500mは4分を僅か
数秒ですがハミ出し、切る事は出来ませんでした。

半年で概ね全ての特訓項目はクリア出来る様になりましたが、1つだけ難題が残っていました。
それはパスを往復1000回連続で続ける事でした。1000回行えば必ず数回はミスが出て
続けられなくなってしまい、 また最初からやり直しです。

結局これが出来る様にするには自らのミス率を一桁低下させる事も必要でしたが、相手にミス
が出た時、出てからでは運動神経の良くない筆者では特に対応不十分となり、結局は相手の
手とボールのずれから飛ぶ方向を予測が出来る様な特技が付いて、やっとこれをクリア出来る
様になりました。これは他のプレーの全てに応用が可能でした。

アタックを打たれてからでは0.3秒程度でボールは手元に来てしまいます。
筆者の反射神経は後述で述べますが、通常の2倍値の0.7秒強でした。
つまりアタックを打つかなり前に行動を起こさない限り、絶対にレシーブ出来ないのです。 
「その様な夢物語が可能なのか?」 結果として可能でしたから筆者の今があります。

名ハンターになれたのもそう言う特殊能力のお陰であり、数々の大きな仕事もそう言う先読み
能力のお陰でした。後追いの仕事では大変だけで、大きな成果は上げられず、仕事の出来
不出来は如何に読んでいるかで決まります。

   特殊能力の開花。
結局その特殊能力開花のお陰で1965~67のインターハイ3回と66年の国体に出場する
事になりましたが、それは後刻反射時間が0.7秒強である事が分かって、結果的にそう言う
特能力が身に付いた事が分かった次第です。
それまではバレーボールに適応出来る様になって苦手だった運動神経も改善されたと思って
いました。ゼッケンは2年生の時からずっと7番、得意はオープン攻撃とブロック、この二つは
誰にも負けませんでした。

こうして体力及び運動能力は著しく改善され、筆者は最底辺の運動ダメ人間の代表から上級
の運動選手までの両法を体験出来ました。そしてその改善範囲は体力だけではなく、
反射時間(運動神経)も訓練次第で改善出来ると思っていました。

ある時に実習で暇がありましたので120分の1秒が測れるストップウォッチを作り、約100人
の反射時間を測定してみました。
それによりますと平均値は0.35秒強付近にあり、日頃運動神経が優れていると言う人は0.25秒
程度で反応しました。
序でに言えば、各コートの大きさ等はこの0.3秒を基準に出来ており、運動神経が良い人で読み
が当たればイージーに処理出来ますが、そうでなければ対応が難しいレベルに設定されています。
すでにインターハイ選手となっていた筆者の反応時間は絶対に良い方の側に属する筈でしたが、
先述の様に超最悪の0.7秒強でした。装置が誤動作しているのかと思いましたが、正常でした。

つまり運動神経は遺伝であって、直し様が無かったのです。
それにしてはなぜバレーボールがまがりなりにも出来ているのか、考えた結果は手の動きと
ボールの動きからそのズレを読んで、飛ぶ方向を予測して見切り発車しているらしいと言う
結論になりました。更にそう言う能力を持った人は非常に稀な事も分って来ました。

   誰にも負けない生き方が見えて来ました。

   S40(1965)、S41、S42、インターハイ、及びS42年の国体に出場。
   16歳で2輪免許、17歳で軽自動車免許、18歳で普通自動車免許を取得。全て独学。


当時の校則にはバイクを禁ずる項目は無かったので学校に乗って行った事もあります。
そしてこの能力の延長上から何事もよく観察すると更に色々が見えて来まして、人より先に
読んで行動が出来る事は、つまり人の上に立てる可能性が高い事を発見しました。
そしてこの能力は持っている人は稀ですから、読みが成功すれば筆者は出遅れる事が無い
のですから誰にも負けないと言う事も分り、以後の筆者の生き方はこれが基本となりました。

1967年16歳で自動2輪を取得、運転免許はこのバイクの時もそうですが、自動車学校の
類には行かず、頭の中だけでアレしてコレしてを繰り返し、殆どそれだけで直接受験し、
バイクは2度目で合格でしたが、以後の軽4輪(当時16歳で受験可360㏄)、普通自動車、
大型特殊は全て1発で合格しました。

頭の中だけの練習ですから試験の本番もエンストせずに発進出来る確率は50%前後でした。
またS字カーブとクランクの両方を落とさずに通過出来る確率も50%前後でした。
試験本番の時もSは成功しましたがクランクで脱輪し、エンストも何回かありましたが、
めでたく1発で合格しました。自己採点との誤差は無く72点でした。




  


Posted by little-ken  at 15:19狩猟人生を振り返って、

2017年05月09日

狩猟人生、その1:銃18歳、狩猟20歳、狩猟人生の始まり:1968年~。

銃と狩猟の始まり。1968年~
1968年、トヨタフォークリフト入社設計に配属。普通運転免許取得し愛車はベレットディーゼル
を購入し、休日毎に日本各地にツーリングしました。当時軽油はガソリンの半分以下、
15km/リットル走り、1kmを1円強の程度で走れました。

また川崎W1と言う650㏄のバイクも持っていました。これは1リットルで45kmも走って
くれますのでこれも助かりました。
燃費の良いで言えば筆者は使いませんでしたが、その頃デビューしたトヨタスポーツ800も
1リットルで35km走りました。

18歳になって空気銃のライセンスも取得しました。最初の銃は5.5mmのポンプ式空気銃、
メーカーは絶版の兵林館 のモデルASでした。
狩猟は20歳まで待たなくてはならず、取り敢えずは隣市の射撃場に連日通いました。

1970年には20歳になり念願だった狩猟を開始、2年間の射撃場通いで腕はかなり上がり、
立撃ちMax.168点、30m 離れた雀の頭だけを撃ち抜く事が出来る様になり、且つパワフル
で75m先のキジバトを貫通しました。

しかし間もなく飛鳥射撃に心を奪われ空気銃を売却、上下2連散弾銃SKB700を所持しました。
ところが当時はハンターが50万人以上と非常に多く、何処に行っても先客が必ずいました。
結果として狩猟は甘い物ではなく、何処に行っても獲物には会えず、会えるのは先輩
ハンターだけ、稀に獲物に出会えても射撃まで持ち込めず、稀に射撃しても撃墜する事は
出来ず、落ちこぼれる寸前でした。

落ちこぼれ寸前は初年度最終日のキジバト命中で救われ、その後は徐々に獲物の付き場や
狩猟法も徐々に分って 来ました。翌年、家の近くの休猟区が開き、小雨の降る時にキジの
踏み出し猟に行きました。

何と信じ難いのですが、25回もの射撃チャンスがありましたが、事如く失中、持っていた弾50発
を使い切る直前の最後にやっと1羽に命中しました。当時はそれ位までに未熟でお粗末でした。
当時の月給は3万円、弾は50円/発、日当の丸2日分の弾代はかなり効きました。

      兵林館AS、30m先の雀の頭を狙撃75mのキジバトを貫通。

             SKB700上下2連銃12番。

当時狩猟と言えば猟犬を使ったキジ・ヤマドリ・コジュケイ猟が80%で超主流、猟犬が
いなくてはハンターではないと先輩ハンターも 猟犬を押し付けて来ました。
今ではヤマドリやコジュケイはほぼ絶滅寸前です。
既成路線に対しては反骨精神の筆者の方向はドッグレスのカモ猟に決まりました。
最初のカモは朝日に輝く見事な青首、失中でした。










  


Posted by little-ken  at 08:20狩猟人生を振り返って、

2017年04月26日

狩猟人生、その2:ボルネオ島ジャングル駐在を拝命:1973年。

ボルネオ島の狩猟。1973年。
1973年ヤマハに転職、ボルネオ島ジャングル駐在1年間を拝命、木材搬出の為のベース
キャンプを作る仕事でした。
実はボルネオはマレーシアの呼び方であり、インドネシアではカリマンタンと言います。
共にイスラム教ですがインドネシアの方がルーズで、ここはアルコールもビールまではOKです。
ここには野性動物がたくさんいるのですから、狩猟を行わない手はありません。

マメジカやオオトカゲやヤマネコと現地ポリスから銃を借り、公認の夜撃ちをしていました。
ただポリスの銃はナチスマークの入ったモーゼル98K、強力過ぎて小物はバラバラになって
しまい、4.5mm口径のスプリング式空気銃を購入しました。
本当は5.5mmのポンプ式が欲しかったのですが入手不可でした。

主な獲物はウサギの2倍程度のマメジカ、毎週の様に夜間狩猟に行きましたが数回に1回しか
獲れませんでした。
マメジカはウサギの様な味がします。ウサギを知らない人向けに言えば1番近いのは鶏肉です。

そして残念だったのはキャンプ近くに居付いた体重200~400kgの大型サンバー鹿の夜撃ち
に行った時の事です。10mの距離で5秒以上の時間があったのですが、オープンサイトに
慣れていなかった事もありますが、迫力負けで  撃つ事が出来ませんでした。
今なら絶対に捕獲していますが、当時はまだまだ未熟でした。

  左:キャンプで獲れた大水トカゲ。右:現地助手と捕獲したヤマネコの皮と孔雀のしっぽ。

また近くの沼には雷魚がたくさんおり、魚が食べたくなるとこれを釣りに行きました。熱帯のジャングルと言うと蔓や草で1歩進むのも蛮刀で切り開かなくてはならないと言う感じを
受けますが、それは川の近くの焼き畑農業を行った跡地周辺だけの事です。
元々ジャングルと熱帯雨林は全くの別物なのです。

今では本物の熱帯雨林は本当に少なくなりましたが、そこは高さ50m以上の大木の森が
生い茂り、太陽の光は地面に全く届かないのです。
従ってつる草の類は殆どなく、釣竿を担いでスイスイ歩ける、これが本物の熱帯雨林です。
当時持っていたフィルムカメラの感度はASA100、これですと昼間でもフラッシュが必要でした。
そう言う事でジャングル内の写真は殆どありませんが、それは写らないからなのです。
雷魚はウナギよりもヌメリが強く、鶏肉よりも歯応えがありますが鶏肉の様な美味しい魚でした。

   現地製の押し罠、珍しく明るいジャングルでした。ジャングル内で写っていた
   写真はこれだけです。  これで色々な小動物が獲れました。
   ヤシの葉の作業小屋、全身キャンプとして各所に作られていました。








  


Posted by little-ken  at 17:35狩猟人生を振り返って、

2017年04月23日

狩猟人生、その3:帰国後のカモ撃ちバイト:1975年~。

海辺の製材工場時代の狩猟。1975年~
1975年、前記の様にヤマハのボルネオ島プロジェクトの後工程に位置する製材工場合理化
の仕事を戴きました。
製材工場があったのは愛知県豊橋市の海岸部、そこは全国NO.2のカモの渡来地
(銃猟禁止区域)の隣ですから、目の前にはカモがたくさんいます。
ハンターならばこれを撃たないと言う手はありません。

筆者はここの仕事になった1975年から本格的カモ猟開始、2連発では寂しいので当時は
まだ5連発であったガス圧作動式セミオートSKB1900を取得しました。
筆者は本社から派遣されており、工場の勤務体制に  従う必要はなく、毎朝カモ猟を
1~2時間してから遅め 出勤をしていました。
当初は未熟ですからカモが余り獲れず回収は寒中水泳法でした。

やがて後述の手法の組合せでカモがたくさん獲れる様になるとこの寒中水泳法は余りに
大変で、色々試行錯誤の末、結果的に水の流れと風の向きを見て回収を先に考えた狩猟を
行う様になりました。つまり撃っても獲物が流れ着かないのであれば撃っても意味がありません。
捕獲はその条件が整うまで待つと言うやり方で、結果的にカモの習性に精通する事になり
出会いが倍加しました。

数年後には秒速3発の速射法が完成し、これで捕獲率は一気に3倍近くに向上、更に安価な
射撃用の小粒7.5号弾の有効度が高い事を発見、これにより弾代は半額になり、それで
いながら更に命中率は倍加、つまり合計では6倍の捕獲量にもなったのです。

実戦の場数を多数踏むと狩猟技術は更に向上、遂には一群れから良い獲物だけを選んで
一瞬の1連射で当時8羽の定数を希望の場所に墜せる技術を身に付けました。
従ってカモの回収に時間が掛からず長靴すら不要でした。
「そんな夢の様な狩猟が可能なのか」、可能でしたから特権乱用でカモ撃ちは良いアルバイト
になり、朝は遅めの出勤ですが、夕方には早目の退社で夕方ラッシュの前に朝獲ったカモを
売りに出掛けていました。

当時は高度成長時代で庶民向けの炉端屋や焼鳥屋がカモを欲しがり、海ガモでも1羽
800円弱で売れました。これは月給が5万円の時代にシーズン(3ヶ月)に数百羽を売りまして
合計30万程のお小使いになりました。
この頃はカモ猟にシーズン3ヶ月に3000発を消費していました。
これだけ撃てば誰でも少しは上手くなれます。

カモ撃ちは儲かるバイトで、この費用は主に旅行の費用となりました。
SKB1900はその後50年間弱に同型式5丁を使い継ぎ、推定カモ5千羽以上&害鳥のドバト
含むハト類4千羽以上を 捕獲する事になりますが、それはこの時に得た射撃技術や狩猟
ノウハウのお陰で、それは後刻のお話にします。







  


Posted by little-ken  at 18:25狩猟人生を振り返って、

2017年04月23日

狩猟人生、その4:本州鹿巻狩り連戦連敗の9年間:1982年~。

連戦連敗の「本州鹿猟の始まり」。1982年~
1982年頃から時代は変わり、焼き鳥は中国で100%加工済みの物を使う様になり、カモが
売れなくなりました。それで予ねてから憧れていた大物猟の世界に移りましたが、それは予想
とは大きく違う世界でした。
仕事的にはこの2年前から自前会社設立準備の為、中小企業に修行に行っておりました。

当時愛知県内にはまだ鹿が少なく、猟場は片道3時間掛けた隣県の三重県の中央付近でした。
カモ数千羽撃墜の実績から実戦射撃は誰にも負けない程の抜群の自信があり、鹿に出会える
事さえ出来れば捕獲は極めて容易と思っていました。ところが現実はそう甘い物ではなく、
結果的には非常に良い勉強になりました。

結果的に7年の50余日間は鹿の姿さえ見せてもらえず連日沈黙の敗戦が続き、7年目の
1989年やっと初失中を記録しました。

後刻どうして鹿が来なかったのかの原因は分かりましたが、それは「さあ、何処からでも来なさい」、
「トンコロにして差し上げましょう」と「殺気」を振り撒いていたのです。
鹿に限らず野生動物の五感は人間の1000倍以上も優れています。
鹿の側からすれば筆者の視界外で射手の存在を知り、迂回していたので姿さえ見せてもらえ
なかったのです。

間違って入部した名門バレー部でさえ逃げ出さなかった筆者です。それを今回は自ら希望して
始めたのですから獲れないからの如きで逃げ出す訳には行きません。これは筆者の信条です。
同時期に始めた他の新人3名は3年前後で 全員が獲れないからの理由で当の昔に辞めて
行きましたから、筆者は余計に意地でも辞められません。

そうは言う物の全体的にも余りに捕獲率は低く、0.05頭/日人の程度でした。
つまり20回出撃してやっと1頭となりますが、もちろん新人はこの枠外です。
余りに捕獲率が低いので辞める決意をしましたが、それは1頭を捕獲してからとしました。

1983年から銃砲専門月刊誌であるガン誌ライターとなりましたが、まもなく雑誌が狩猟記事
を扱わなくなり短命なライターに終わりました。
そうそう1頭目の失中原因は14-6項で詳しく述べますが、オープンサイト自体の欠陥でした。
近距離には適していると言われていたオープンサイトですが、本当は適していなかったのでした。

  レミントン1100の20番ディア―ガン。スラグ専用銃ですが、初失中後にとにかく
  被弾させる事を最大優先しバックショットを運用に変更した。








  


Posted by little-ken  at 18:22狩猟人生を振り返って、

2017年04月23日

狩猟人生、その5:待望の本州鹿1頭目:1990年。

自前会社時代の狩猟、本州鹿1頭目の捕獲に成功。1990年。
1989年(有)サンシャ電装を設立の翌年、1990年にやっと第1号の鹿が獲れました。
それは9年目の70余日目でした。
この記念すべき1頭目は携帯電話にカメラが付いていない所か形態電話自体がまだ普及して
いない時代であり、獲れるとは全く思っていなかったのでカメラの準備もなく写真はありません。

もちろんそれまでの70余日間、何もしなかった訳ではなく、当時考られる事は全て試しました。
それがこの日は新しい試し事をもう思い付かなくなり、諦めの心境になりました。
そしてこれが結果オーライとなりました。今までは自ら振り撒いていた「気配」と言うか「殺気」
のお陰で鹿に感付かれ、迂回されていたのですが、諦めの心境で「殺気」は無くなり「気配」
もかなり低下しました。

その結果、何時もの様に感付かれる事なく筆者の待ち場に鹿は接近し、そして自らの気配も
低下していましたので筆者も鹿の接近に気付き、射撃は元々自信がありましたので捕獲成功
となったのです。

それを元に考え直すと今までは何故獲れなかったのかよく分かり、1頭捕獲したら辞める件は
無期延期とし、更に多少 追加事項を試したくなりました。
その結果、翌年10年目の捕獲は無く、最初の10年間ではこの1頭だけの捕獲に終わりました。

しかし本州鹿狩りの内容が十分理解出来た事は大きな進歩であり、次の10年間では100頭
を捕獲、そして更に次の10年間には何と1000頭を捕獲したのですから痛快です。
この急速な進歩を達成出来た理由は狩猟にも合理化と同じ手法が使えたからでした。

1991年、もう一つの狩猟であるカモ猟で過去最大の大猟がありました。
20年に1度の奇跡的な大猟でした。カモの商品価値は低下した物の当時の鹿猟の解禁は
12/1から2ヶ月間、カモ猟は11/15からの3ヶ月間、相変わらずカモ猟の解禁は楽しみの
一つでした。捕獲ノウハウの全てはここに遺憾なく発揮され、カモ撃ちの技術的にはこの頃は
1番乗っていました。

この年から岩手猟を始めましたが、岩手に鹿の楽園は無く、結果として遠廻りをしてエゾ鹿の
巻狩りに到達、しかしそれも究極の猟ではありませんでした。
究極のエゾ鹿猟は後刻述べるガイド付の流し猟でした。


1991年にはライフル銃のレミントン742を取得、1984年から運用開始したレミントン1100
ディアーガン20番とのペアガンとして使える同型式のライフル銃で効果を発揮する筈でしたが、
期待外れでした。本城では93年ルガー77に変わるまで3頭捕獲に留まりました。


20番ショットガンタイプでは1990年鹿の第1号を捕獲し97年11-87に変えるまでに全て
バックショットで10頭を捕獲しましたが、元々本来の用途ではなく、無チョークからのバラ撒き
は被弾粒数不足でよく走られました。

どちらの銃も同じですが、照星、照門、目標を同一線上に捉え難いと言う、早い話がオープン
サイト自体の欠陥であり、この欠陥は後刻ルガー77のスコープ専用銃を運用してよく分かり、
そして11項のショットガン対策でこれは証明されました。







  


Posted by little-ken  at 18:03狩猟人生を振り返って、

2017年04月23日

狩猟人生、その6:本州鹿3週連続で捕獲成功:1993年。

本州鹿トロフィー級を初捕獲、3週連続大成功。1993年。
1993年、初捕獲から3年目に初めて本州鹿のトロフィー級を獲りました。
場所は愛知県N町でした。
仕事的にはこの前年には自前会社が好調で業務拡大、(有)トレーラージャパンを作りました。

この10年間で鹿も随分増え、愛知県でも狩猟可能な時代が来たのです。
12年を要しましたが、あれほど獲れなかった鹿もこれを最初として3週連続捕獲出来ました。
結局本州鹿巻狩りで最大の重要ポイントは「如何にして自らの気配を低下させる」にありました。

この12年目の成功以前はまだ物陰に隠れて鹿を伺っていました。物陰で動かないつもりで
あっても、伺うと言う事は動く事になり、人間より3桁敏感な鹿に筆者はこれで何時も発見
されていたのです。一方、隠れない姿丸出しでも、じっとしていれば、鹿は目が横に付いている
構造上から発見出来ないのです。

丸見えでも発見されない事はこうして立証され、この3週連続の大成功と成りました。
3週連続の出会いはマグレですが、3週連続で気配合戦に敗れる事無く引き寄せに成功し、
これに失中しなかったのは実力です。
1993年「本州鹿の巻狩りに開眼」、筆者の鹿猟はこの年を境に大きく変わりました。

   1993年12年目に初めてトロフィー級捕獲。同年3週連続の2週目と3週目の本州鹿。 









  


Posted by little-ken  at 17:59狩猟人生を振り返って、

2017年04月23日

狩猟人生、その7:エゾ鹿猟の始まり:1993年~。

ボルトアクション銃の購入と「エゾ鹿猟」の開始。1993年~
6項と同じ1993年はルガー77ボルトアクション銃を購入し、北海道のエゾ鹿猟を始めた年
にもなります。

ルガー77は98年H&Kオートになるまでの5年間に約15頭を捕獲しましたが、その最後の年
には北海道記録の角長88cmを記録し、これはその後1000頭余を捕獲した現在も更新
されていません。また初の300m射撃を成功する等々数々の思い出のある銃となりました。

尚、初撃墜も北海道記録88cmのエゾ鹿も走っている鹿であり、スコープ専用銃は近距離が
不得意ところか、近くなら走る鹿に対しても非常に使い易い銃であると改めて感じました。

エゾ鹿猟も当初は民宿合同巻き狩りでしたが、3~4日に1頭、本州猟の捕獲平均値は
0.05頭/日人ですが、この頃の筆者は4~5日以内に1頭の捕獲が出来る腕前だったのです
からエゾ鹿巻狩りも情けない捕獲量でした。
エゾ鹿巻狩りでやっと本命の入り口らしき所に到着したかの様にも思えましたが、それは
まだここではありませんでした。

尚、これも遠回りだった岩手の五葉山有料猟区も高い入猟料金の割りに6~7日に1頭と
全くの期待外れでした。

   エゾ鹿第1号は走っている鹿でした。









  


Posted by little-ken  at 17:52狩猟人生を振り返って、

2017年04月22日

狩猟人生、その8:エゾ鹿猟の師匠:1996年。

エゾ鹿猟の師匠に出会う。1996年。
1995年から始めた単独猟の翌年の1996年に北海道の白糠の山奥にて愛車パジェロが谷川
に半落ちの大ピンチ、このピンチを救ってくれたのが筆者のエゾ鹿猟の師匠となったH師匠です。
ガイドも出来ると言うので助けて戴いたお礼に1日だけ試しにお願いしました。
筆者は自力単独猟達成を目標にしておりましたが、余りに出会い数の多さを見せ付けられ、
1997年から3年間のガイドをお願いする事にしました。

   1998年初の300m射撃成功しました。 
   また同年北海道根室のS牧場にて最大記録の88cmを捕獲。これらの2頭は共に
   ルガー77で捕獲したのですが、この数日後から運用はH&Kオートに変えました。


筆者はこの3年間のガイド猟約90日に一桁多くの多くの出会いから多数の失敗を経験、
これがその後に大きなプラスになりました。
しかしH師匠の人生観や狩猟の進め方には共感しない部分が多く、解体法も含めて多くを
学びましたが、筆者は師匠とはやがて全て違う路線で行く事にしました。

しかしそのベースはあの膨大な失敗量にあり、これはH師匠のお陰でありそれが現在に
続ながっています。
H師匠にガイドをお願いする様になると意外に走る鹿が多い事が分かり、1998年これを捕獲
しようと思い立ち、銃は連射性に優れたセミオートが良かろうとヘッケラーSL7のライフル銃を
購入、何時かは5発5中を夢見る様になりました。

    当時のハンティングカーパジェロ。まだドノーマルでした。







  


Posted by little-ken  at 18:49狩猟人生を振り返って、

2017年04月22日

狩猟人生、その9:ランニング射撃の完成:2000年。

実戦90日、2000~3000発でH&Kライフルの移動射撃完成。2000年。
1998年には前記の様に自動ライフルH&KのSL7を追加。
本銃は06年にサコー75に変わるまでに約350頭を捕獲し、内走行中の鹿が約100頭でした。
本銃はボルト銃並に当たると言う謳い文句でした。
その謳い文句の通り実際非常によく当たり、一見すると究極の銃に見えましたが、しかし究極の
ライフル銃はまだ本銃ではありませんでした。

本銃運用3年後、実戦90日&2000~3000発を要し、2000年には走る鹿に対するスイング
射法が完成しました。

結果的に言うとライフル銃のスイング射法はクレー射撃のスイング射撃と殆ど同じでした。
では誰が撃ってもクレーと同じ様にすれば当たるのかと言うとそうではありません。
それは巷のショットガン射手の90%以上が基本を全く守らない引き止まり射撃をしている
からです。ショットガンではイカサマ射法であっても何とかパターンでカバー出来ますが、
精度が必要なライフル銃では基本通りの安定したスイング抜きでランニング射撃を語る事は
出来ないのです。

ライフル銃に依るスイング射撃は次の様な物です。
鹿の中心を捉えて安定追尾し、その後にスイングを加速し、追い越しざまに目標を見ないで
引き金を引く、と言う射法です。

何故見ないで撃たなければならないかと言うと見えている獲物の映像は意外と古く、見直すと
映像の次元が異なり、銃のスイングが乱れるので当たらなくなるからです。
この射撃方法は目標までの距離や目標の速度や相対角度に関係なく、アバウトですが非常に
上手く機能します。この頃の実用射程は100m、命中率は5発強で1頭でした。

また2001年には累計110頭になりまして、鹿撃ちの最初の10年間では1頭の捕獲に
留まりましたが、次の10年間では100頭の捕獲となりましたが、その殆どが本銃による成果
ですが、この100頭捕獲もガイドのお陰です。
筆者は忙しい社会人ハンターに取って理想のエゾ鹿猟とは実はこのガイド猟だと思います。


   H&Kオートライフル、2002年には150mテーブル撃5発で12mmを達成、かなり
   当たる銃と言えました。またランニング射撃を本銃で完成させた意義には大きな物
   がありました。この成功はガイドの存在抜きには語れませんが、ガイドには
   ランニング射撃能力は無く、ガイドから学んだ物ではありません。






  


Posted by little-ken  at 18:42狩猟人生を振り返って、

2017年04月22日

狩猟人生、その10:巷のエゾ鹿ガイドの能力:1999年。

10北海道のエゾ鹿ガイドの実力。1999年。
それはH師匠3年目、1999年のエゾ鹿解禁猟の出来事です。東京の銃砲店組合がエゾ鹿
猟遠征を募集し、45人程を阿寒に送り込んで来ました。H師匠もガイドとして参加する事に
なり筆者はその助手として参加しました。
地元ガイドも15人ほど顔を揃えていました。皆ベテランぶった偉そうな事を言っております。

そして明日から3日間の猟が始まると言う事になりました。その朝の事ですが地元ガイド1名が
急に体調不良となり、筆者も2名を受け持つガイドとして参加する事になりました。
まだ本格的な修行を始めたばかりの筆者はビリ確実の筈でしたがそうでは無かったのです
から驚きました。

   筆者のチームは15チーム中の2位でした。
3日間の猟の結果、トップはH師匠チームの6頭、2位は何と筆者チームの3頭でした。
他に1頭のチームが3チーム、残る10チームの捕獲はゼロでした。そしてゼロであったチーム
の過半はロクな出会いが無かったと言うより鹿を見る事も無かったと言うから驚きです。
地元ベテランもガイドとしては多くが失格だったのです。

本州ハンターの平均的な射撃技量不足や初めてのエゾ鹿猟で狼狽した射撃等々、射手の側
にも大きな問題は有りますが、鹿を見せられなかったのではガイド失格です。
そんな失格クラスのガイドが多数いた事には筆者チームが2位だった事以上に驚きました。
なお翌年の銃砲店組合の遠征は過半のチームが捕獲ゼロであった為に中止となりました。

この様にガイドを付けてもその能力次第では捕獲ゼロ頭はこの時代にも結構あり、岩手の
五葉山有料猟区で1995年頃に聞いた話ですが、数年通い続けて70万円を払っても捕獲
ゼロで、また五葉山有料猟区に戻った人もいました。



   殆どが3流の現在のガイド事情。
さて最高のパフォーマンスが売りのガイド猟ですが、ガイドの能力が低い場合、2010年以降
では上記とは別の理由で捕獲ゼロが成立しています。
それは駆除が1年中行われ、1頭捕獲すれば1~2万円の手当が出るからです。

1流の能力を持つハンターの捕獲数は年に1000頭に達し、プロハンターとして高収入を得て
いるのです。つまりガイドをして1日5万円稼ぐよりもそれより遥かに高収入が可能なのです。
2流ハンターでも安定しない客商売のガイドよりもプロハンターとして自らの捕獲を選びます。

従いましてどう言う人材がハンティングガイドをするかと言えば、自前で捕獲能力が無い3流
以下のハンターがガイドを行っているのが普通です。
その結果としてあちこちのブログでもガイドを付けても捕獲ゼロだったと言う記載をチラホラ
見る様になりました。

もちろん3流ガイドと言えども通常のアマチュアハンター以上の技量は持っていますが、
それでも獲れないほど近年のエゾ鹿の学習度は進んでいるのですから、ガイドレスで捕獲
出来たらそれはちょっとしたモノです。

   もし獲れ高が半分以下なら、次回は半額の筆者スクール。
スクールのW生徒はその典型的な例で釧路ガイド猟では3年連続で合計9日間ゼロ頭でした
が、スクールでは僅か2日で良好な勝負が30回、大物も獲りたい放題であったのですが、失中
の連続で捕獲は僅か4頭、ガイドによって大きな違いが出る事の証明例となってしまいました。
この様にガイド猟出撃の際は獲れるガイドの選択が最重要になります。

出猟される場合、獲れるガイドを利用しないとお金をドブに捨てる事になります。
筆者のスクールでも捕獲を保証はしていませんが、もし出会いが少なく、その結果として
平均値2頭/日の半分以下の捕獲結果に終わった場合、次回は半額チャレンジになります。
もちろんスクール開講以来15年以上が過ぎますが1度も運用された事はありません。

失中が主原因の場合は対象外です。
筆者はどんな未熟なハンターにも銃は向けさせ撃たせますが、捕獲は腕と時の運です。

因みに我スクールの平均捕獲量は2頭/日です。もちろん初心者がこれに至れるには
3~4年を要しますが、過去には実猟3日以上で手ブラ帰還はありません。


大物はショルダーの急所を狙わなければ捕獲の可能性はかなり低くなりますが、
小物であれば上半身のド真ん中でも比較的大丈夫です。








  


Posted by little-ken  at 18:38狩猟人生を振り返って、

2017年04月22日

狩猟人生、その11:バックショットメインの短銃身ショットガン:1997年~。

11短銃身のショットガン。1997年~
少し話が前後しますが、1997年には本州多目的猟用に短銃身バックショットメインの
レミントン11-87の12番21インチの運用を開始しました。
本銃は2000年に本州巻狩りを卒業するまでに約20頭を捕獲出来ましたが、特筆は全て
10m以内の失中&未回収がゼロであった事です。
鳥猟にも多用し08年SKB24インチに変えるまでカルガモ約300羽&ハト多数を撃墜しました。

初失中の7年目の50余日以後はその失中の原因を考え、スラグからバックショット(大粒散弾)
に切り替えました。バックとは鹿の事です。
しかし20番と言う小口径バックショットは12番に比べて粒数も少なく甚だ非力でした。
これを無チョーク銃身からバラ撒く為、鹿には当たりますが被弾粒数不足で倒し切れない事が
続出しました。

スラグ弾運用が上手く行かなかったのは照星と照門と目標、この3つは元々同一線上に安定
保持が難しく、更に3つはそれぞれ違う焦点距離にあり、この3つを移動目標時にも同一線上
をキープしたままでしか命中出来ないのと言うのはオープンサイトの欠陥と言える物でした。

  これ以前はレミントン1100ディア―ガン。22インチライフルサイト付のチョーク無し
  の20番スラグ専用銃でした。
  スラグは命中させにくいのでバックショット使いましたが、無チョーク銃身から
  バラ撒きますと当たりますが、弾粒数不十分でしばしば数km走られました。


それで、サイトは銃を向けるだけで目標までの銃身方向をキープし易いリブサイト、チョークは
フルチョークより更にもう少し絞ったターキーチョークを採用しました。

ショットガンは複数被弾複次効果がある為に有効度が非常に高くなり、その時の1粒の威力
には余り関係がないのが最大の特徴です。強力なライフル弾でも急所でなければ3発を要し、
1桁以上も低いエネルギーのバックショットの3粒でも即死するのです。
その考えで行けば27粒の4号バックショットがベストですが、当時は入手不可でした。

選択は9粒か6粒に限られ、当時の9粒弾は鳥撃ち用側の300m/sでしたが、6粒とスラグ弾
は高速の450m/sでしたから6粒を試し、粒数の密度不足ならば考え直しましたが、鹿の胴体
に3粒当たる確率は40m以上まで可能でした。
そして本銃は予想通りに活躍してくれ、失中&未回収無しに連続20頭の好成績が出ました。

  新作のレミントン11-87の21インチのターキーチョーク、12番バックショット用で出来る
  だけ短く&素速くを追求しました。
  素早い照準には絶対にリブ銃身、前作の無チョークの反省からフルチョークとし、本銃
  では抜群の成果をあげました。11-87は21インチ銃身ですが外にハミ出すチョークが
  付く為に実際は22インチになります。










  


Posted by little-ken  at 18:35狩猟人生を振り返って、

2017年04月22日

狩猟人生、その12:運命の交通事故:2002年~。

12交通事故後の狩猟、2002年~

2000年末には調子に乗り過ぎてはいけませんよと言う神様からの警告的な物だと思いますが、
北海道で交通事故に巻き込まれて死に損ないました。
ぶつけて来た若者は路外に放り出されて即死しました。

2001年の末頃には概ね日常生活が出来るまでになりましたが、右目は思う様に動かなくなり、
事故後の視力は半減、更にまともに見える視野も激減しました。
それまでの筆者の猟法は2.5とも3.0とも言われたその抜群の視力を生かして、林道の木の
陰に隠れているエゾ鹿を発見して撃ち獲る狩猟をしていたのですが、これが難しくなりました。

その為に狩猟方法を全面的に変更し、新しい狩猟方法は如何にしたら鹿に会えるかです。
全ての鹿と言う訳ではありませんが、少なからずの鹿は特定条件の短時間だけですが、
牧草地の草を食べに出て来ます。
北海道の牧草は数年毎に植え替えられる世界1美味しい牧草であるからです。
最悪で出会い数は一桁減少すると思われましたが、結果として鹿の出会い数は倍増しました。

一つの能力がダメになっても必要であれば他の能力が発達する事を実感、1時期は交通事故
の相手を恨みましたが、以後は新たな能力を得る事が出来た事に感謝しています。

2002年には今までの仕事の卒業、かつての保留テーマの再チャレンジをする事にしました。
その内容はここでは省略しますが、暇はたくさんあっても出費を抑えなくてはなりません。
狩猟も暇に問題は有りませんからたっぷりやりたいと思いますが、しかし同様に出費は抑え
なくてはなりません。

そこで狩猟を教えるスクール開設を考えました。狩猟で1番難しいのは出会いを得る事です。
男と女の出会いは双方がそうありたいと思っておりますので、基本的には狩猟に比べてかなり
容易です。余りにも持てない男は母性本能をくすぐり、これまた上手く行く事も多々あります。
筆者もハートの矢を多くの意中の女性に向けて数多く放ちましたが命中は1度もありません
でした。しかしお嫁さんにして下さいと言う女性が現れまして救われております。

しかし野生動物相手ではあなたは余りにも鹿に出会えなくて或いは獲れなくて気の毒ですから、
私が撃たれましょうと言う事は絶対にありません。またハンディをもらえる事も有り得ません。
逃げるのが下手なドジな鹿のレベルを超える技量を持たない限り、勝利の日は永遠に来ない
のです。それ故に筆者は最初の1頭を捕獲するのに9年間と70余日を要しましたのは先にも
書いた通りです。

本州鹿の巻狩りに於いて平均的な捕獲技量を持つ様になってからでも捕獲率は0.05頭/日人
です。20日通えば1頭の捕獲ですが、初心者は少なくともその前半にはその数倍を要する
可能性が高いです。
シーズンは昔2ケ月間、その後3ケ月間になり、今はもっと長く最大で6ヶ月になりました。
シーズン3ヶ月ですと土日フル出動すればシーズンに25回の出動が可能で、それを3年間
続ければほぼ確実に勝利に辿り着けます。

しかしそれは非常に難しい事であり、フル出動は捕獲の喜びを知った後であればいざ知らず、
普通は3回連続で獲れないまでも可能性が見出せなければ出席率の低下が始まります。

せっかく高いハードルを幾つも超えて始めた狩猟ですが、通常は長くても3年程度しか待てず、
出席率低下が始まればシーズン90日に10回も通えば良い方と言え、翌年は更に半減する事
でしょう。結果として1度もまともな出会いを得る事も無く、もちろん1度も勝利を味合う事も無く、
至らなかった理由を他の理由に置き換え、3年以内に80%以上が辞めて行きます。

この頃の筆者はおかげ様で1日当たり平均3度強の出会いを得る技術を持っていました。
この技術を生かし、ハンティングスクールを設立する事にしました。初年度からそんなに生徒
は集まりませんから、残りは自らエゾ鹿を捕獲しその鹿を売却して収入の足しにしようと企画、
2002年、紋別郡山中の廃屋を購入し、そこにハンティングスクールを開設しました。

10数年間のスクールの結果ですが、ここは初年度から捕獲出来ますので初心者の90%以上
が生き残っています。やはり初年度もしくは2年目までに捕獲成功、もしくはその十分な可能性
を体験させる事が重要だと筆者は考えます。

  2002年同年紋別郡山中に廃屋を買い取り、ハンティングスクール設立。周り20km
  に民家は1軒もありません。
  2003年、スクール約1ヶ月のトロフィー、生徒の持ち帰った分を入れればこの2倍程
  になります。紋別郡はそれほどエゾ鹿の密度は高くないのですが、ハンターも少なく、
  読み通りの猟が出来易い場所でした。







  


Posted by little-ken  at 18:32狩猟人生を振り返って、

2017年04月22日

狩猟人生、その13:エゾ鹿の習性とは:2002年~。

13スクールの狩猟ではエゾ鹿の習性が分かって来ました。2002年~
白糠や根室はエゾ鹿が非常に多くいる所ですが、一方でハンターも多い場所です。
筆者は紋別郡山中にスクールを開講しましたが、ハンターの少ないここで狩猟を行う様になる
とエゾ鹿特有の行動が手に取る様によく分かって来ました。
そのお陰で奇跡の高出会いやボス級との出会いが可能となりました。

出会いは平均的には1日当たり5回強、内成獣オス鹿の3段角率70%前後、1日毎に2頭が
捕獲され、2日に1頭の大物が捕獲され、初参加の初心者でも捕獲ゼロは過去にありません。

   エゾ鹿の季節的行動。
エゾ鹿は10月下旬から繁殖期による特別な行動が1ヶ月ほど続きます。また北海道は地区
により季節感の差がありますが、高い山が雪に覆われ始めますと、そこに住む鹿は雪の
少ない地域まで少し降り、これが1ヶ月強に渡り積雪の 都度少しずつ移動を繰り返します。

今回はその繁殖期の特別な行動に付いて詳しくお話をしたいと思いますが、これは筆者が
観察した結果からの推測です。
メス鹿は群を作りますが、繁殖期のオス鹿は群を作らず、他のオスは全てライバルと言う形
になって単独行動を取ります。

紋別郡山中は繁殖の時期と山を降りる時期が重なる事から、ライバル合戦が牧草地で
行われる事が多く、オス鹿の目にはライバルとメス以外は余り写らないおめでたい状態に
なります。こうした出会いを追求し続けた結果、エゾ鹿猟の出会いの70%がこの3段角の
成獣オスになったのです。

出会いは撃ち易い牧草地に多く、且つそれがかなりの大物と言う、ハンターにとっては夢の様
な日々の連続となります。
     
   エゾ鹿の群れの構造。
鹿の群れは5~6頭のメスの群れが基本で、同族の親子兄弟がメインとなりこれにボス鹿1頭、
これが当地区の群れの平均値です。
しかし実は群れの構成はこれだけではなく、周辺にはボスの座を狙うNO.2やそれに続く
NO.3以降の数頭が近くでそれぞれ様子を伺っています。雌が発情しますと全ての雄は交尾
しようとし戦いが起こる事もあります。

6頭前後の大物鹿が100m前後の等間隔で円を描く様に並んで順位争いの睨み合いをして
いるのを見掛けた事も何度かあります。
当地に於いても3頭程度の睨み合いは毎シーズンそれ程珍しい事ではありません。

        エゾ鹿の平均的な群れとボス鹿。エゾ鹿の平均的な群れ、最後にボス鹿が
        付いて行きますが、ボスは近くにいて見張っている事もあります。 


       80cm級超大物の全力のぶつかり合いボス決定戦、
                  
メスの群にはボスと呼ばれる角長78cm~80cm強のその地区のNO.1のオスが何時もメス
の群の近くにいます。そのメス群がおめでたければNO.1ボスも朝の合法時間に会えますが、
通常は時間外の可能性が高くなります。

しかし朝夕が特別暗い日には合法時間の可能性が高くなりますから、そう言う天候の日には
後述のそう言う場所に行けば、射程距離150~200mでNO.1に出会えますが、サボット
スラグ銃ではやや難しい距離となります。
 
  群れのNO.1は角長75cm以上。 NO.2は70cm前後。 NO.3は60cm前後。  
  右は2歳エゾ鹿の特徴のカニ角、これは本州鹿では見られない特徴です。
     

注目はこの後です。メスの群れとNO.1のボスが引き揚げると、間もなくその近くの比較的広い
見晴らしの良い牧草地の丘の中央でNO.2が「我ここにあり」とアピールする為、数分程度です
が仁王立ちをします。

NO.2との出会いの多くが合法タイムすれすれ、朝夕が多少暗い時は30分の余裕がある日も
あります。NO.2は通常は5~6歳の70cm級の大物です。
地形から多くは射程距離が100~150m、サボットスラグ銃でも十分狙える距離ですが、
舐めて掛かれません。このNO.2と対戦出来る可能性が高いのがエゾ鹿猟の最大の魅力です。

NO.2が引き揚げると、今度はNO.3がその近くのやや小さな場所で同じ様に「我ここにあり」
をアピールします。これは完全に合法タイムで、このクラスから一気に捕獲数が多くなります。
NO.3は4歳前後の60cm級、射程距離は100m前後ですからサボットスラグなら全く問題の
ない距離です。

NO.3の後にはNO.4がやはり同様に行いますが、これは3歳の3段角になったばかりの
若オスで距離も100m弱になり 更に撃ち易くなります。
1歳のピン角や2歳のカニ角はショーシーズンの少し前の時期には姿を出しますが、
こう言ったショーシーズンが始まると出番がなくなります。

14時前後からは朝と反対の順番で夕方のショーが同様に行われます。
更に翌日、何もなければ隣接の数km以内で それほど変わらない時間に同じ様な朝夕の
ショータイムがあります。

撃たれますと朝は早くなり、夕方は遅くなる傾向になり、3度それを過ぎるとその方向は限界
となり、日中のとんでもない意表を突く時間帯に出現する様になります。
また朝や夕方に月がある場合と無い場合で少し時間帯が変化します。

これに対し本州鹿巻狩りでは繁殖期は同じ頃と思われますが、山が雪に覆われず山から
降りる季節的な移動がなく、山に留まる鹿と森の中で出会う事は容易ではありません。
また体格の劣る普通の猟犬では肝の据わったボス鹿を追い出せず、本州鹿のボス鹿との
勝負は絶望的になります。

   エゾ鹿の大物に会える場所。
エゾ鹿大物に抜群の出会い数があるのは筆者のセンスによる所も大きいのですが、すでに
説明した様に北海道1部 地域だけの独特な地理的構造のおかげで起り、筆者はそれを利用
しているに過ぎません。

筆者の狩猟方法は流し猟に分類されますが、この1週間の天候の変化から群の動きを細かく
推測し、出現する僅かな時間帯に合わせてその現場にピンポイントで直行する「ポイント猟」
と名を付けました独特の狩猟方法です。
その場所で予め待っていても鹿は気配を感じて出て来ず、偶然に丁度通りかかった様に
さりげなく行く事が重要です。

最初に鹿が降りる場所は高い山からの沢筋が直接続ながっている牧草地で、徐々に里方面に
移動をして行きますからその新しい移動先の場所を予測して連日「ポイント猟」で追い掛けます。
その新しい群れが山から降りる日は、そこらかしこに多数が姿を出しますが、その状態を
フィーバーと呼んでいます。

出会い率はその後徐々に低下して行きますが、5~6日程度で次の積雪があり、また新しい
フィーバーが始まります。
フィーバーはシーズンに4~5度繰り返され、紋別郡山中では最初が10月25日頃、終わりは
11月20日頃になります。

  また紋別郡はヒグマの痕跡の多い所でした。何時かはヒグマと勝負したい物だと思って
  おりましたが、その日は意外と早く訪れまして2006年、小さなヒグマでしたが第1号、
  翌2007年には第2号と第3号を頂きました。


1度その場所で捕獲成功の味をしめると良くあるパターンですが、夢よもう1度と定期的に同じ
場所に通う様になります。これはわざわざ鹿に警告を送っている様な最悪の状態になります。
普通の流し猟をする人はエゾ鹿の行動が読めて いない人達ですから、鹿が出そうな場所が
連続するコースを選びがちです。

しかしそう言う所はハンターが多く、結果的に定時パトロール(本人はしなくても毎朝晩に誰か
がパトロールする)の最悪コースになります。
そう言う場所には諸条件の揃った時(5~6日に1度)だけ行く様にし、普段はわざと通らない位
の配慮が必要です。







  


Posted by little-ken  at 18:28狩猟人生を振り返って、

2017年04月22日

狩猟人生、その14:プロライターと自前出版:2002年~。

14ライターの仕事と自前出版、2002年~
2002年から狩猟月刊雑誌「狩猟界」の連載を頂きましたが、2年 持たずして雑誌が絶版と
なりました。ハンターはまだ16万人程いたのですが、2/3以上が戦力外の高齢ですから本を
読んでまで技量アップしようとする人はもう激減したのです。

2003年には「スポーツガンガイドブック」のライターとなり、世界的 超老舗のベレッタ、ゴールド
メダリストの70%が愛用するペラッツィ、国産老舗のミロク等々の世界の有名銃器メーカーを
取材し、4x4 マガジン社のスポーツガン(年鑑)を書く事になりました。


スポーツガンは海外の年鑑にも負けない本格的な年鑑です。銃砲店の売り上げは10%しか
居ない射撃選手で80%を占め、雑誌のスポンサーは銃砲店ですが、スポーツガンの読者は
過半以上が狩猟派です。

そう言う事実から筆者は狩猟の記事をたくさん載せるべきだと主張したのですが、編集部は
これに大反対しました。
それで頭に来た筆者は狩猟記事を満載した自前の「狩猟大全集」を出す事にし、スポーツガン
から手を引く方向にしました。狩猟大全集の自前出版にはそう言う裏事情があったのです。

  06~08年 狩猟大全集左からショットガン編、ライフル編、応用猟編、チャレンジ編、
  別に秘境4万kmを出版。


スポーツガンガイドブックの仕事はそれでも5年程は続きましたが、筆者が手を引いて間もなく
絶版となりました。狩猟者の減少は最早どうしようもない所まで来てしまったのでした。
ハンターはピーク時の1970年には50数万人もいたのですが、2014年には装薬銃ハンター
は8万人程度になり、70%が60歳以上と言う状態です。
狩猟界、スポーツガンの廃刊で狩猟関係誌はしばらく途絶えてしまいました。

2014年には月間狩猟雑誌「けものみち」が新たに発刊され、筆者はカモ猟とエゾ鹿猟の連載
2本+αを書き、メインライターとなりましたがこれも僅か3年で絶版となってしまいました。
原因はハンターの減少や高齢にもあるのですが、「けもの道」の編集部は猪猟の狩猟用品を
売る会社を兼ねており、その結果としてどうしても猪猟の猟犬の記事の比率が高過ぎた事に
あります。猪猟に限らず猟犬を使う狩猟はどうしても猟犬頼りになってしまい過ぎ、本質的な
狩猟の原点に立ち返らない事に原因があるのです。

  2014年には月間狩猟雑誌「けもの道」が発刊され、ではカモ猟とエゾ鹿猟を連載
  しましたが、僅か3年で絶版となってしまいました。
  2016年、狩猟大全集の続編は「魅惑の海外猟編」と「エゾ鹿猟の魅力編」です。
  ビッグバ―ドハンティングとビッグゲームフィッシングも多少出て来ます。
  中は海外猟編の裏表紙です。


そこで筆者は暇が出来ましたので狩猟大全集の「魅惑の海外猟」と「エゾ鹿猟の魅力」の続編を
出版する事にしたのですが、問い合わせすら全く来ない状態、もはや猪ハンターに留まらず
日本のハンターはそこまでやる気がなくなったのかとガックリ来ています。

筆者は狩猟の普及をライフワークとしていましたが、考え直す時期が来た様です。
仮にそれが正しく究極の事であっても、誰も興味がなく誰にも分らない事では意味がありません。







  


Posted by little-ken  at 18:25狩猟人生を振り返って、

2017年04月22日

狩猟人生、その15-1:憧れが全てがサコーで達成:2006年。

15-1ライフル銃を2006年にH&Kのセミオート銃からサコーのボルトに戻しました。
その年度中には全てのライフルハンターの憧れである、300m遠射、5発5中、そしてヒグマ
と筆者の永年の憧れ項目が一気に達成されました。それは永年掛けた下地がほぼ完成して
いた時期に、良い銃に巡り会えた事の2つが重なった事により達成されたと思います。

サコー運用開始時点はエゾ鹿猟を始めてから13年目、実戦累計約200日余、総撃墜数は
約400頭、そんな頃でした。
そんな全てのライフルハンターの憧れる項目を検証してみたいと思います。

   西部劇の早撃ち並のスナップショット
筆者の場合はカモ猟時代に数年掛けて取得したショットガンのスナップショット技術が基本に
なっています。
特にライフル銃で更なる猛特訓をした訳ではありませんが、これは銃の構え方は全ての射撃
の基本ですから、これが出来なければ他の射撃も出来る筈が無いと言えます。

普通の人が行う照準動作は24項の1に掛かれていますが、装填、安全装置解除、肩に銃を
付け、スコープを探し、それから獲物を捜索し、それから非常に長~い照準微調整があって、
やっと発砲、所要時間は軽く10秒以上を要します。

それに対し正しいスナップショットでは装填しながら銃身で獲物を指差す様にし、安全装置を
外しながら肩に真っすぐ引き寄せます。すると考えがその様に先行しておればですが、銃が
肩に着く前にスコープから急所の映像が入り始め、肩に着く前に撃っても照準は出来ています
から必ず命中します。
と言うより肩に着くとその衝撃でまた照準がズレるので着く前に撃つ方がベターとも言えます。

そう言う事ですから、肩付けと装填と安全装置解除と照準は全てをまとめて早ければ1秒以内
で発砲となり、軽く10倍以上の合理化がここに完成した事になります。

   2普通の鹿に負けない150m早撃ち
10秒以上掛かる普通の照準で本項にある様な3秒で逃げ出す普通の鹿や大物鹿をどう
やって撃ち獲るのでしょう。
また他の射撃に於きましてもこの手法をマスターすれば10秒の節約は非常に魅力的です。

元々実戦射撃は早くしないと逃げられると言う心と、キチンと狙わないと当たらないと言う心の
ジレンマになります。
ところが射撃と言うのはそうした不安要素が僅かであると途端に命中しない物なのです。
そう言う意味に於いてこの10秒間が有効側に廻ると言う事はアセる必要がなくなり、圧倒的な
命中率の向上に続ながるのです。

普通の鹿は銃を向けますと3秒以内に逃げ出し、普通ハンターの技術では仕留められません。
大物鹿である程、社会経験を多く積んでいるので容易に銃を向けさせて貰えません。90%
のエゾ鹿は何時もそうして身を守っており、初心者ハンターに獲れる鹿はデメキン鹿だけ、
普通ハンターに獲れる鹿はメデタイ鹿までになります。
メデタイは目が出でいると書き、もっとメデタイのはもっと目が出ている、つまりデメキンと言う
愛称が相応しいのです。

10%程度のメデタイ鹿や数%のデメキン鹿だけを相手にしていてはハンターとしては本物に
なれませんし、成果も上がりませんし、せっかくの超大物に出会えても時間不足を嘆く事に
なってしまいます。
エゾ鹿はその習性を13項でも述べていますが、射程100~200mに多く出現し、更にすぐ
逃げる本物の鹿を捕獲する為にはスナップショットやランニングショットを初めとする本項の
全6項の射撃術をマスターする事が不可欠になります。

筆者はそのレベルに達するまでにエゾ鹿猟を始めてから13年、ライフル銃を始めてからでは
16年を要しました。
要は中距離であっても3秒以内に撃てる様な早撃ちの訓練が必要で、これが出来る様になって
初めて普通の鹿や社会経験を多数積んだ超大物とも勝負出来る様になれるのです。

一方の本州鹿猟では射程距離は20m前後、猪猟に至っては10m前後、こちらは射撃術が
不要と言うかライフル銃 自体が不要です。
殆ど猟犬とグループを頼って獲らせてもらっておりますので上手くなれないのです。
その点でエゾ鹿猟では自らとの戦いの連続ですから、順番にクリアして行けばドンドン高い
レベルになれるのです。

   他の銃種では不可能な300m超の遠射
300mの遠射には銃単体に撃たせる技術が必要で、反動に体が身構えない様な訓練を克服
しなければなりません。
しかしそれは生理的に起こってしまう現象により照準がずれるのですから、相当レベルの
心して掛からないと銃にはその精度があっても150mで5cm程度の300m遠射射撃術を
得る事は出来ません。

更にこれに加え距離に対する不安を無くす事が出来なければ遠射は達成出来ません。
筆者もライフル銃を所持してから初の300m成功までには8年、安定した300m射撃が
出来る様になるまでには更に8年、合計16年を要しました。

ライフル銃は相性の良い弾を使えばと言う前提で150mから5発撃つと弾痕が続なる
ワンホールとなって、10mm台の 精度が出せます。筆者がこのワンホールまでの道程は
ライフル銃を使う様になってからちょうど10年を要しました。
300mの遠射にはこのワンホール技術は必ずしも不要なのですが、外さない自信を育て上げ
られなければ300mの遠射は成し遂げられませんから、300mの遠射とワンホールは相前後
して達成されるのが普通です。

   超難易度の150mのランニングショット&5発5中
移動目標には弾の飛行時間分の前を撃たなければ絶対に命中しないのですが、更に見ている
映像は古い虚像ですから、肉眼で見た古い虚像ではなく、心の目で見る真の未来映像の位置
に銃弾を送る様にしなければ命中しません。

具体的には終盤から最終発射時までは見ないままで引き金を引く様にしなければ命中しません。
50mランニング射撃能力を持つまで鹿猟を始めてから9年、その後更に3年で3000発を鹿に
向けて練習し、100mの射撃術が得られ、安定した150mのランニングが出来るまでには更に
10年、合計22年を要しました。

更にランニング射撃が出来てからも、5発5中は当て様とする心も含めて邪念をゼロにする
平静な心が必要です。
安定した150mランニングが出来るまでは上記の様に22年を要しましたが、5発5中はその
後1年で達成、永年掛けてそう言う平静な心構えさえ出来れば5発5中自体には特別な難易度
はありません。

   エゾ鹿超大物に迫力負けしない平静な心
対戦は喧嘩と同じです。相手の体格がかなり上まわるとそれだけで迫力負けを起こし、戦う前
から心がすでに負けてしまっています。
筆者の初の超大物捕獲成功まではエゾ鹿猟を始めてから5年を要しましたが、安定して負け
ないと言うまでには更に8年の合計13年を要しましたが、これも結局は場数がモノを言うます。
同じ格と5度対戦すれば乗り越えられますが、20%格上に対しては至らず、それの5ランク分
を繰り返さなければなりません。

   猛獣ヒグマにも臆しない鋼の心
最終的にエゾ鹿超大物にも負けない心が安定するまでは6項の様に13年を要しましたが、
筆者の場合は同時にこれがヒグマに対しても有効となりました。ヒグマに対しては6戦6勝です
から決してマグレではございません。

この手法は早い話がこうなったらこうしよう、ああなったらそうしようと予め起こるであろう内容を
予測する事、そしてそれに対応出来るカードを準備しておき、いざその場になったら瞬時にその
カードを選択し、後は無の心で唯々行動する のみと言う事になります。
ヒグマは鹿と違って立ち止まりませんからエゾ鹿より速い行動が要求されるのです。







  


Posted by little-ken  at 18:19狩猟人生を振り返って、

2017年04月22日

狩猟人生、その15-2:サコー運用で新たに分かった事:2006年~。

15-2サコーを運用して新たに分かった8つの事。2006年~

2006年に筆者はH&Kのセミオート銃からサコー75のボルトアクションサコー75バーミンター
に再び戻した訳ですが、本銃に換えた主目的はH&Kで安定しなかった300mの遠射を達成
させる為でした。
前7項目に対しては個々の射撃術項目には13年~22年を要したと記載していますが、
それは前記の様にエゾ鹿猟を初めてから13年目の2006年に全てが一気に開花したのでした。 

サコ―75バーミンター改は300m遠射、200m以遠の走行射撃、オートより速い連射と理想
の銃になりました。
本銃1丁で全体捕獲1200余頭中の過半である約750頭を捕獲、ランニング射撃も350頭
以上を記録。本銃は銃身側5cm、ストック側2cmカット、全体を軽量化すると共にバランスを
整えました。

本銃のベースは口径308のサコー75バーミンターステンレスモデル、フルート銃身の軽量
モデルでセットトリガー無し、スコープはリューポルドの3~9倍ズームの最低価格の安物です。
グルーピングは150mで18mmとH&Kの12mmに少し至らない精度でしたが、遠射時の
座りは圧倒的に良く本銃になるや300mの遠射を多数成功させてくれました。

高い命中率のお陰で、本銃はH&Kより少し短い6年間の運用でしたが、H&K時代の2倍の
約700頭(2011年度終猟時)内350頭程度が走る鹿でした。
筆者の全体スコアの2/3はこのサコー1丁から得られた成果です。
そしていざボルトアクション銃のサコーの運用を開始しますと新たに分かった事が8つありました。

   遠射は回収が大変
あれほど長い間決まらなかった遠射ですが、サコーに換えた途端とは申しませんが、その
2006年シーズン中には300m遠射多数や、初弾命中ではありませんがMax.500mを2発
連続で成功させる事が出来ました。
簡単に成功させられる様になると回収が大変である事に気が付き、以後は余り遠射をしなくなりました。

結果的に言えば、距離が遠いと言う事で心が最初からビビっていたので当たらなかったと事が
主原因だったと思います。
当たる様になってからの300mは当たって当然と思って撃っています。

   ボルトアクション銃は連射が速く、且つよく当たる
遠射性能向上の為にはランニング射撃の性能低下には目を瞑るつもりでした。
ランニング射撃等の連射性能はセミオート銃には遠く及ばないと思っていたのですが、何時の
間にかセミオート銃よりボルト銃の方が速い間隔で射撃しており、命中率も倍加している事に
気が付きました。セミオート銃の装填自体は一瞬ですから速いに決まっています。

しかし反動で標的がスコープから消えい、探し直してそれから改めて追尾が再開されます。
それに対し、筆者のボルトアクション銃の連射では肩から降ろして再装填しますが、装填は
再肩付行程の一環になっておりそれで遅くなる事はありません。更にこの間も体は目標の
追尾を続けており、肩付けが完了する直前からスイング 加速が再開されますのでボルト銃
の方が速い連射が可能になっていたのでした。

命中率の向上は1度見失った目標を探し直さなければならないセミオートの連射過程には
心の焦りが生じ易く、目標を見失っていないボルトアクションの再肩付け連射の方が良い
命中率を出す事が出来たのだと思います。

理解頂き難いかも知れませんが、結果としてセミオート銃よりもボルト銃の方が連射速度は
多少速く、且つ後述の射程距離が2倍、その上で命中率も約2倍、総合効率が4倍も上がった、
これは紛れもない事実です。
本銃ではその後も含め約750頭を捕獲、内350頭以上が走行中の鹿と言う信じ難い数値と
なりました。

   ランニング射撃でも200mは楽勝
ランニング射撃時の射程距離が大幅に延びました。H&Kのセミオート時には100mを越える
と余り当らずでしたが、サコー75に換えた途端から150mも難なく当てられ、200mでも
それほど難しくない事が分かったのです。
実際、200mクラスまでの命中率低下はありませんでした。

元々スイング射撃自体は近くても遠くても、そして速くても遅くても無調整で対応が可能である
射撃ですから、心の不安さえなければ落差無調整で出来る200mまで十分対応が可能でした。
成功事例は余り多くないのですが、横切れの250mまでは当てられ、追い撃ち方向の後方
からの射撃では300m射撃も何度か成功しています。

   命中率が約2倍
なお平均150m先を走る鹿100頭を倒した記録の分析では1頭倒すのに使った弾数は平均
2.7発で倒している事が分かりました。
H&Kオート時での命中率は100m弱で5発強でしたから、距離で2倍、命中率で2倍の達成
ですから総合的には4倍の改善になりました。

300mの遠射の回収が大変で余りしなくなった事は先の通りですが、ランニング射撃も同様で
以後は回収を考えて撃つ様になりました。

   ライフル銃の150mは近射
直接サコーとは関係ありませんが、スクールの生徒の動向を見ていますと、当初は80mでも
失中でしましたが、経験と共に100m、120m、150mと射程距離は確実に延長され、照準の
方もスナップショットもどきで確実に速くなっていますが、全員がきっちり狙い込む様になり中々
引き金を引かなくなりました。

もちろんそれが良い結果をもたらす筈は無く、早く撃たなければ逃げられると言う不安感から、
命中率の低下が大きくなり、それを防止する為によりきっちり狙う様になり、更に命中率が
低下すると言う悪循環に陥ってしまいました。

サボットスラグに於いて150mは気の置けない距離であり落差補正も必要ですが、さりとて
エゾ鹿猟的に言えば近射に分類されます。
そしてそんな頃10年の歳月をクリアし、憧れのライフル銃を所持出来る様になります。
ライフル銃がこの難題を解決してくれる事は全くありません。
過去サボットスラグからライフルに格上げになった生徒3名を見て来ましたが、新ライフルに
使い慣れていないので全員がサボットスラグ以下の成果しか出せなかったのです。

この様にライフル銃はサボットスラグ銃と命中精度には余り差がなく、差が出るのは150m
以遠の落差だけなのです。
必要なのは更なる精度ではなく、早撃ちであり、150mを近射と思える様に意識改革をしな
ければなりません。

筆者もそう思う様になってから早く撃てる様になりました。
そして早く撃つ事によって逃げられる恐れは大幅に少なくなり、その恐れが無くなる事により
捕獲率(命中率)はグンと上がる様になりました。

   夢の5発5中
ライフル銃を始めたばかりの頃、前記7項目の様に達成したい憧れがありました。
憧れの5発5中は速い連射性能と高い命中率から2006年度中には3回経験出来ましたが、
回を追う毎に回収が大変である事を痛感し、今ではもう絶対にやらないと決め、以後は
Max.3頭、通常は2頭まで、それも回収条件が良い時に限る様になりました。

サコーはランニング射撃でも命中率と射程距離の各々2倍の総合4倍の好成績を出す事が
出来たのは先の通りですが、結果的に言えばクレー射撃の万射も最後の1枚が壁であった
のと同じ事でした。
それはそう意識するから壁になり、そう言う意識をしないで撃てる様になれば間もなく達成
出来る様になるのと同じでした。
しかし何よりも銃を変えた年に達成ですから、サコーのお陰の部分がかなりあります。

   ヒグマ捕獲
紋別郡はヒグマの痕跡の多い所でした。
何時かはヒグマと勝負したい物だと思っておりましたが、その日は意外と早く訪れまして
2006年、小さなヒグマでしたが第1号をサコーにより出会い頭の50mスナップショットで
仕留めました。、翌2007年には第2号と第3号も頂きました。
ヒグマ捕獲はその後も含めてヒグマ捕獲累計は6頭となりましたから決してマグレでは
ありません。

2007年がヒグマの当たり年であった様に2014年も当たり年、NO.4とNO.5を捕獲しました。
特筆は15mの突然の出会いであったNO.4のヒグマ、そして体重400㎏以上で計測不能で
あった巨大なNO.5のヒグマ、これらにも臆する事なく、スナップショットで急所を撃ち抜き捕獲
成功させた事、これも筆者の狩猟人生の集大成の1つに数えられると思います。

尚、ヒグマの狩猟期間は10月1日~3月末日までですが、実質は10月末頃の初冠雪からの
2週間後の冬眠に入るまでの非常に僅かな期間に限られます。初冠雪により冬眠が近くなった
事を悟ったヒグマは急にソワソワしだし、注意力も 散漫になり行動半径が広がり出会いの
チャンスが一桁増えます。

筆者の捕獲した6頭は全てこの時期であり、出会いの場所は交通量の少ない林道周辺が
多かった様に思います。時間帯は通常の朝夕の狩猟出撃が終わった頃であり、林道でも
交通量が多ければ適していない様に交通量が低下した時間帯になります。

この様にサコー75バーミンター改には筆者自身も本当に驚かされましたが、銃を変えた
途端の2006年から僅かな期間に長い間の憧れが全て達成されました。

これらの事実からボルトアクションスコープ専用銃と言うのは
  決してWW1時代の旧式銃の延長ではなく、「あらゆる距離」「全ての場面」に於いて
       「圧倒的に優れている」「究極のライフル銃」だった事になり、
             筆者はそれを証明した事になります。
その後、2012年以降のサコー改は大幅ダウンした狩猟運用に限られ、50頭程度/5年となり、
更に近年は低下中で卒業も近くなったと感じています。

   実戦100日クリアが夢達成のスタート
これら全ての達成もその時点までの下積みが充分あればこそだと思います。
2006年サコー運用開始時点で筆者の実戦実績は前にも書きましたが、約200日余であり
総撃墜数は約400頭でした。従って誰であっても実戦200日をクリアすれば夢の達成に対して
全てが開けてくれるだろうと思います。

その筆者もその初期段階は3年間90日余を優秀なプロガイドにお願いし、出会い多数から
急速な進歩が得られ、その後短期に独立出来ましたので、1つの目安は実戦100日をクリア
する事から夢の達成のスタートが始まると思っています。

憧れのエゾ鹿の超大物猟も意外と難しく、スクールの捕獲成功者は30名中の僅か5名の6頭
だけ、しかも殆どの生徒は まだマグレで捕獲しましたので以後が続かず、2頭目の超大物を
捕獲は1名だけに留まっています。

筆者とて5年目で超大物には一応マグレ的な成功を納めましたが、その頃はまだ普通に仕事
をしており実戦累計は50日余のレベル、スクールの超大物達成生徒の平均値の8年の30日
程度とそれほど変わらず、まだまだ超大物には悪戦苦闘の至らない狩猟をしていました。

更にハンターの究極の憧れとして何時かはヒグマですが、これはもっと難しく、ツキノワグマ
1頭を含む200頭近い総数を誇る最ベテラン生徒でもヒグマに対しては2戦2敗、足が全く地に
着いていない射撃でした。彼の累計実績は12年で50日程度ですから、これもまだ至らない
のは当然です。他の生徒にはまだヒグマチャレンジを認めていない状態です。

実戦100日はシーズン4日なら25年を要する事になりますが、筆者は3年強で終了しました。
最短距離があるとすれば有能なプロハンターに弟子入りをお願いすれば1年間以下でも
マスター出来る事になります。そうして1年でプロハンターになった男を2名知っております。

また2006年に銃をサコーにした途端に全てが達成された事からも、良い道具の選択も重要な
アイテムと言えますが、それは未熟な本人が選ぶよりは師となる人に選んで頂いた方が硬いと
思います。









  


Posted by little-ken  at 18:11狩猟人生を振り返って、

2017年04月22日

狩猟人生、その16:万能散弾銃24インチ:2007年~。

16ショットガンをSKB24インチに換えました。2007年~
2007年、ショットガンをレミントン自動21インチからSKB24インチ自動の12番に変更しました。
古くからSKB1900オート30インチを愛用しておりました。  
射撃時のバランスは良いのですが長過ぎて取り廻しが悪く、それでレミントンに短銃身の21
インチがありましたので、 これをフルチョークで運用してみました。

それなりの十分な成果を上げる事は出来ましたが、レミントンはフィット感とバランスも今一つ、
それでフィットの良いSKBで銃身長をもう少し長くして作り直す事にしました。
その結果は先がやや軽過ぎ、肩への当たりも今一つと言う事で、先台キャップを特別製の
重り入りとし、パッドエンドのピッチダウンを変更しました。

その結果、30インチ銃身の優れたバランスにかなり近付ける事が出来、トラップ射撃で54枚
の連続命中を記録、実戦でも十分な性能を発揮してくれる様になりました。

  SKB1900改24インチ、前作レミントンの改良版で長過ぎず短過ぎずで連射&速射性
  抜群、トラップ連続54枚、カルガモ駆除では射撃チャンス28回からダブル6回トリプル
  2回と25回の命中から32羽を撃墜、こちらも理想のバランスの散弾銃となりました。



  


Posted by little-ken  at 17:57狩猟人生を振り返って、